トレインマナー
暖かい日差しが気持ちいい。
心地よい電車の振動と、窓からの光で、ぼくはうとうとしていた。
あとどのくらいだろうかと腕時計を見ると、隣に座っていたタケシが小声で話しかけてきた。
「おい」
「ん?」
「あれ見ろよ、あれ」
彼が顎でしゃくった方を見る。
四〇代くらいのおじさんがひとりで座っており、結構な声量で話をしている。
耳に右手を当てているところ見ると、ケータイで話しているのだろう。
「あのおっさん、さっきからずっとああなんだよ」
「マナー悪いね」
「だろ? だからおれが一発かましてやろうと思ってさ」
「かますって?」
「電車の中で通話するなってビシッて言ってやるんだよ」
「えー。やめた方よくない? 面倒なことになりそうだし」
「お前ね、そういうことを言ってるから世の中に悪がハビコルのだよ」
「ハビコルってどういう字だっけ?」
「いや、今それはどうでもいいだろ。とにかく、おれが今ズバッと言ってるからよく見とけ」
「やめといた方いいって」
ぼくは引き留めようとしたが、タケシは意を決したように立ちあがり、おっさんの方をちらりと見た。
おっさんはまだ話し中のようだ。
タケシはそれを見て、ますます意志が固まったようで、チッと小さく舌打ちをした。そして、ゆっくりと踏みしめるように一歩一歩、歩きだした。おっさんはぼくらが乗っている車両のちょうど一番端の席に座っている。中肉中背で銀のフレームのメガネをかけた、どこにでもいそうな容貌である。
面倒なことにならなければいいが。
タケシが起こした今までのトラブルが頭をよぎり、ちょっとげんなりする。
ハラハラしながら、遠目にタケシの動向をうかがっていると、ちょうどおっさんの前にきた。
そこでゆっくりとおっさんを正面にとらえる。
そこで大きく息を吸う。
言うのか? 本当に言うのか?
が、突然、慌てたようにポケットから自分のケータイを取り出す。
まさかこれから通話を注意するってのに、自分が話すんじゃないだろうな。
どうやらそれはメールだったらしく、ディスプレイを見ながらこちらに戻ってきた。
おっさんには一言も言葉をかけていない。
なんだ。ビビったのかな。
「どうしたの?」
「あ?」
「注意したの?」
「してねえよ。つうか、あれはできないって」
「怖くなった?」
「んー、まあそうと言えばそう」
なんだ、あんな強気なことを言っていて、結局は恐れをなして戻ってきたんだな。
だから、やめとけばって言ったのに。
「でも、普通はそんなもんだよ」
「いや」
そう言ってタケシは無言でおっさんの方を見た。それにつられるようにして、ぼくも視線を向ける。
おっさんは依然として、大きな声で話している。
だが、今度は腕組みをしている。
つまり手を耳に当てていないのだ。
通話、……じゃない?
「あのおっさん、耳にも何もつけてなかった」
「え?」
「つまり、ケータイじゃない」
もう一度、おっさんの方を見る。
何やら怒ったような表情で、今度は怒鳴りだした。
なにあれ、こわ。
「通話じゃないから注意はできなかった。つうか、あれはさすがに怖くて何も言えないな」
なるほど。
タケシの言葉にうなずき、なにやら背中がムズムズするような変な感覚に陥った。
世の中にはいろいろな人がいるものだな。
Apr. 12, 2009