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復讐の時

 我慢の限界だった。
 彼の傍若無人な行動は目に余るものがある。わたしにだけならまだしも、その卑劣な行為は妹にまで及んでいた。あの男の欲望はとどまることを知らないようだ。
 母さんはそんな彼を咎めようともせず、ただ言いなりになっていた。そのことも怒りの対象となった。粛々と受け入れているから、あの男は調子にのるのだ。言いように使われ、母さんは悔しくないのだろうか。
 だが、たとえ何か言ったところで、あの男が素直に聞くとは思えなかった。どうせ聞く耳もたず、暴力を振るうのだろう。度重なる蛮行に、妹は心を患い、今ではあの男の怒鳴り声を聞くだけで、体調を崩すようになっていた。かわいそうに。
 いつまであの男が家にいるのか、母さんに尋ねたことがあった。
「あの人がここを出て行きたいと思うまで、ここにいてもらうつもりです」
 わたしは耳を疑った。そこまで尽くさなければならない義務が、どうしてわたしたちにあるのだろうか。どうやら何かしらの恩があるらしい。けれども、ここまで尽くさなければならない恩というのは、いったいどのようなものなのだろう。
 早く死んでくれることを祈り、一日一日を過ごした。
 殺してしまおうとも思ったが、非力なわたしにはそれもなかなか難しい。
 できるだけ顔をあわせないようにして、妹たちを守った。
 地獄。
 わたしたちの生活は以前とは全く違うものとなった。

 ある日、母さんに呼ばれ、居間に行った。あの男はソファにふんぞり返り、わたしの方をいやらしい目でねめつけた。極力、顔をあわせないようにして、椅子に座る。
「お帰りになるそうです」
 そう言った母さんの顔を凝視した。喜びと言うより驚きの方が強い。母さんはわたしの方を見て、こくりと頷いた。
「そろそろここにも飽きてきたしな。また来るかも知れんが、一旦帰ろうと思う」
 どうやらいつものように酒を飲んでいるらしく、少し呂律の回らない口調で男が言った。わたしはキッと睨みつけるが、男はへらへらと笑っている。
「それで彼にお土産を持っていってもらおうと思うの」
 どこまで人がいいのだろうと、母さんの言葉を疑う。
「土産か。そりゃいいな」
 耳障りな声で男が言う。無視して母さんの言葉を待つ。
「隣の部屋に黒塗りの箱があるでしょ」
 わたしの方を見つめ返しながら、母さんが言う。
「ええ」
「あれを持ってきて欲しいの」
「だってあれは昔から家に伝わるものじゃ?」
「そうよ」
「そんな大切なものをどうして」
「大切だからこそ、ご恩のあるこの方に差し上げるのよ」
「ご恩……」
「早く持ってきてちょうだい」
 きっぱりと母さんがそう言うので、わたしは嫌々ながら隣の部屋に向かった。
 桐の箪笥の上にその箱はあった。この家に代々伝わるものらしく、中になにが入っているのかわたしも知らなかった。しかし、子ども心に、とても大事なものが入っているらしいということだけは感じていた。
 そんな高価なものをなぜあの男にやらなければならないのだろう。釈然としない気もしたが、この箱と共にあの男が去ると言うならば、従わないわけにもいかない。
 箱は思ったよりも軽く、ちょっと振ってみても何も音がしない。本当に何か入っているのだろうか。もし何も入っていないなら、それはそれでよかった。ただの箱ならばあの男にくれてやっても惜しくはない。
 部屋に戻ると、男は酒を飲んでいた。母さんはわたしの姿を確認すると、立ち上がり、わたしから箱を受け取った。
「これは我が家に代々伝わるものです」
「金目のものか? なにが入っているんだ?」
「それは後のお楽しみということで」
「そうか。へへへ。まあいい。もらっておこう」
 男は下卑た笑みを浮かべ、箱をぶんどった。
「それでは家までお送りいたしましょう」
「ああ。悪いな」
 わたしの方に向き直り、微笑みながら母さんが言う。
「ヒラメ、カメさんを呼んできておくれ」

Apr. 19,2004


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