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恋人たちの午後

「里美、蛇って好きか?」
 突然の疑問符だった。里美はボタンを留める手を休め、新一の方を見た。彼は落ちかけた灰をけだるそうに見ている。
「蛇? なんで急に?」
 一番上のボタンを留め終えた所で里美は、テーブルにあった灰皿を彼の前に差し出した。
「好きか?」
 新一は、灰皿に仕事を終えた煙草を置いた。紫の煙は天井まで昇ってゆく。里美は髪を梳かしながら、その手を休めずに答えた。
「別に。あまり好きってことも無いけど、大嫌いってわけでもないよ。あんまり触りたいとは思わないけどね」
 ブラシをテーブルの上に置き、里美は新一の隣に座った。ベッドがゆっくりと沈む。
「そうか」
 窓からの黄金色の夕陽が部屋にたちこめる。最近は随分日が長くなってきた。夏がすぐそこまで来ているのだろう。
「なんでそんな事聞くの?」
 好奇心に溢れた里美の瞳が新一の憂鬱そうな顔を捉える。彼は目を瞑ったまま返事をしない。
「ねえ、なんで?」
 新一は普段から口数の少ない男だった。黙っていても絵になるくらいの容姿で、その目には、何か悲しみのようなものがあった。
 そのミステリアスな部分に惹かれてか、常に新一の隣には女がいた。女たちは彼に言葉を求めなかった。彼女らが求めるのは、自分の隣にいて見栄えのする男だ。要は見た目さえよければいい。言葉は不要だ。
「昔、……」
 新一はベッドから下り、黄金色の源流の傍に立った。
「俺は家の庭に入ってきた蛇を殺したんだ。確か小五の時だったかな」
 里美はベッドの上で膝を抱えて座り、新一の話に耳を傾けた。彼女はこれまで彼から話らしい話を聞いたことが無かった。必要最小限の会話、それが彼女にとって彼の言葉の全てだった。
「蛇って神聖な力を持ってるとか、殺すとたたりがあるとかってよく言うよね」
 黄金色の源流も枯れ果て、外はもう薄暗くなり始めている。里美の言葉に特にリアクションも示さず、新一は言葉を続けた。
「夏の暑い日だった。俺は縁側でスイカを食ってた。そしたら茂みの中から、白い蛇がすっと出てきたんだ」
 里美は壁に上半身を預けていた。目は窓の外を向いている。
「白い蛇? 珍しいね」
 大きな溜め息を吐き、新一は椅子に腰掛けた。
「確かにな。俺もその時初めて見たよ。驚いた俺はそいつから目が離せなかった。すると、ふとそいつと目が合ったんだ」
 里美はクスッと笑った。
「目が合った? 気のせいじゃない?」
 真剣な表情のまま、新一はゆっくりと首を振った。
「気のせいなんかじゃない。確かに合ったんだ。そして突然、やらなきゃやられるという考えが頭に浮かんだんだ」
 口を閉じたまま里美は新一の話を聞いた。新一は彼女にそうならざるをえないような話し方をしていた。
「俺は、婆さんが使ってた草刈用の鎌を手に取った。やつはずっとこっちを見続けていた。恐かった。俺はいつのまにか冷や汗をかいていた」
 そこで新一は、ゆっくりと息を吐いた。話に夢中になっていた里美は、彼に話の続きを促した。
「それで、……どうなったの?」
 新一は里美の方に体の向きを変えた。
「最初に言ったろ? 俺はやつを殺したよ。手に持った鎌でばっさりとな。赤い血が手や服に飛び散った。そして俺は泣いてたよ。大声あげてね」
 もう外は随分と暗くなっていた。家々にも灯りが、ともされ始めていた。
「ふうん。大変だったね」
 感心したような声で里美は言った。里美はベッドから下りて帰る支度を始めた。
「話はここからなんだよ」
 ゆっくりと新一は口を開き始める。
「えっ?」
 里美は手を止め新一を見た。彼の顔に微かに笑みが浮かんでいるように見えた。
「二年くらい前かな。やつが頻繁に夢に出てくるようになったのは」
「やつって……。白蛇のこと?」
 オドオドした様子で里美は尋ねた。新一は椅子に深く腰掛けたまま、全くといっていいほど動かなかった。
「ああ、そうさ。そしてある晩やつは俺に言ったんだ。『私はお前の中にいるぞ』ってね」
 里美は言葉を失った。とても冗談を言っているとは思えない。その言葉の一つ一つが、ゆっくりと里美の頭の中に浸み込んでいく。
「当然こんなことは信じられないだろうな。だけどさ、俺にはしっかりと感じることが出来るんだよ。頭の中でやつが這いずり回っているのを」
 全身の血の気がすっとひいた。里美の顔は真っ白になっていて、手は小刻みに震えていた。そして、新一をこれまでにしたことの無いような眼差しで見つめた。
 狂っている。
 この男は頭がおかしい。
 里美はそう思った。
「そして、やつは俺に言うんだよ。若い女の血が欲しいってね」
 里美は失神寸前だった。心臓が胸の中で暴れまわり、他の内臓を押しつぶすんじゃないかと思った。
 そして、近くにあったハンドバックを引ったくり、急いで部屋を出ようとした。
「おい。どこに行くんだよ」
 生気を失った彼の声が里美を追いかける。全身がわなわなと震えている。嫌な汗がとめどなく体を這っていく。
 玄関で靴を履きながら里美は言った。
「ちっ、ちょっと、急用思い出しちゃって。早く帰んなきゃないの。だっ、だから。」
 新一の瞳はしっかりと里美を見据えていた。
「明日も来るだろ?」
 透き通るような優しい声だった。里美の呼吸はどんどん早まっていった。目は大きく見開かれたままだった。
「うっ、うん。そうね。じゃ、またね」
 ドアは一瞬で開き、一瞬で閉まった。
 里美は泣くのを必死にこらえながら街の喧騒の中を走っていく。
 夜の街は今まさに活動を始めようとしていた。

「蛇が頭の中を這い回るか」
 新一は思わず笑った。
「くっ。我ながらよく考えたもんだぜ」
 押さえ切れない笑いとともに新一はベッドに横になった。
「やっぱり、別れたい女がいる時はこの話に限るぜ。」
 この話を新一が女に話したのは今日で七回目だった。いずれの場合も女たちはその後戻ってこなかった。これが彼の別れの方法なのだ。彼の容姿が功を奏して、この計画は失敗したことがない。
「また新しい女でも作るかな。」
 ベッドの上で大の字になりながら、彼は一人呟いた。


 自分の頭にある大きなミミズ腫れのようなものが、ゆっくりと動いていることに、彼はまだ気付いていない。

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