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キリサメドライブ

 寒い夜だった。
 霧のような冷たい雨の中、茶色のトレンチコートに身を包んだ男が道路の脇で手を上げている。帽子をまぶかにかぶっているので、その表情までは窺うことはできない。きっと何台も通り過ぎていくタクシーに業を煮やしているに違いない。
 もう諦めようと手を下ろそうとすると、ちょうど一台のタクシーがブレーキ音をひびかせながら男の横に停車した。すぐさま男は車内に乗り込んだ。
「ふぅ、助かった」
 身体にまとわりついた雫を払いながら男は息を吐いた。
 運転手はバックミラー越しに男の姿を確認しながら「お客さん、どこまでですか」と尋ねた。さぐりみるような視線が少し不快に思えたが、とりあえず行き先は告げる。
 霧雨の中、車が発進する。
 ラジオも流れていない車内はとても静かで、窓ガラスを打つ雨の音だけが、ふたりの鼓膜を震わせた。
「それにしても」
 沈黙を破るかのように男が声を発する。
「最近のタクシーはどうなってるんだ」
「なにかあったんですか?」
「おれを見て全然止まってくれないんだよ。一体何台通り過ぎていったことか」
「どうもすみません」
「あんたが謝ることじゃないよ。現に止まってくれたわけだし」
「恐らくさっきの事件のせいじゃないでしょうか」
「事件?」
「ええ。さっき無線で入ったんですが、タクシーをねらった強盗がこの辺にあったらしいんです。それで一人亡くなったとか。けれどもまだ犯人は捕まってないみたいです」
「ふうん。そいつは物騒だな」
 改めて自分の格好を見てみると、確かに怪しく見えないこともないなと思い、男は苦笑した。
「凶器は?」
「刃物みたいです。恐らくナイフか包丁じゃないでしょうか」
 運転手の言葉に頷きながら、深く座りなおすと、助手席のシートの下に点々とシミがついていることに気づいた。雨で濡れているのではっきりとは分からないが、その部分だけ一層黒味が深かった。
 まさかな、と思いつつも運転手の方を窺ってみる。声の様子から言って運転手はだいぶ若い感じがした。恐らく二十代後半から、三十代前半。
「君はこの仕事長いの?」
「いやぁ、始めたばかりなんですよ。まだまだ右も左も分からない状態で」
「若いのに度胸あるね」
「え、なんでですか?」
「もしかしたら、おれがその犯人かもしれないじゃないか」
「やだな、冗談はやめてくださいよ」
 運転手は驚くこともなく、笑いながら答えた。あくまで普通なのが、普通じゃないように思えた。そんなことを言われればたいていはぎょっとするのではないだろうか。それともよほど肝が据わっているのか。
 信号で車が止まる。
 その間に運転手は座席の方に身体を傾け、がさがさと何かしている。男が座席越しにその様子を見ていると、運転手は座席の前にはってある写真をはがそうとしていた。けれども男はその前にはっきりと写真を確認した。そこに写っているのは髪の毛が白くなり始めた初老の男性だった。今運転している男でない。
「運転手さん、この辺でいいですよ」
 まだまだ最初に述べた目的地とは数キロほど離れている。
「え、もっと行ったところじゃないんですか」
「そうなんだが、考えてみるとあまり金に余裕がないんだよ」
「お金、ないんですか」
「ああ、全然」
 そう言いながら料金メーターを見てみるが、それは動いていなかった。
「あれ? これ動いてないんじゃない?」
「あっ、しまった。スイッチ入れるの忘れてました」
 いくら新人とは言え、そんな大事なことを忘れるだろうか。
「じゃ、いくら払えばいいかな」
「いや、結構ですよ。こんな天気だから、タダで乗せていきますよ」
 男の家は町並みからだいぶ外れていて、夜になるとほとんど人の気配がない。
「それは悪い。いいからここで降ろしてくれないか。たぶん二千円くらいだと思うから払うよ」
 そう言うと運転手は少し黙りこんだ。
 沈黙と緊張が車内を支配する。
「お客さん、どうして急にそんなことを? わたしになにか失礼でもありました?」
「そんなんじゃないんだ。だからさっきも言っただろ、お金がないんだよ」
「だからお金はいいと言っているじゃないですか」
 運転手の声に明らかに苛立ちが感じられる。
「普通、客の言うことは聞くもんじゃないのか」
 男も声を荒げながら言葉を投げ返す。
「もしかして」
 さっきとは違い、妙に落ち着いた声で運転手が話し出す。
「気づきましたか?」
「気づく? なにを?」
「とぼけないでくださいよ。だから急に降りたいって言い出したんでしょう」
 男は言葉につまった。しかし運転手は構わず言葉を続ける。
「どうしましょうかね」
 外の雨のように冷たい声で運転手がつぶやく。
「とりあえず、もう少しドライブを続けましょうか」
 そう言って彼はアクセルを踏み込んだ。男はドアを開けようと試みたが、ロックされているようで開かなかった。
「お客さん、危ないですから、大人しくしていてくださいね」
 不気味なほどの優しい声で運転手は男に声をかけた。
「お前が、犯人なのか?」
 意を決し、男は尋ねた。
「ええ、そうですよ」
「やっぱりか」
 それを確認し、男はポケットにあるものに手を伸ばした。
「止まれ」
「それは無理な注文ですね」
「いいから止まるんだ」
「しつこいですね、あなた」
 男を脅してやろうかと思い、隠してあったナイフに手を伸ばそうとした。が、その瞬間、彼のこめかみに冷たい金属があてられた。それは今までに感じたことがないほど、重厚で威厳があった。
「警察だ。そのナイフを持てば、お前の頭に風穴が開くぜ。よりによっておれを乗せるとはついてないやつだな」

Feb. 24, 2005


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