見られる
もう空は明るみ始めている。
身体全体を倦怠感が覆い、階段を上るのも辛い。
カンカンカンと乾いた音をたて、二〇三号室のドアの前に立つ。ポケットから鍵を取り出し、それを鍵穴に突き刺す。ガチャリと音がして、鍵が解かれる。暖房がついているわけではないが、外と比べると中は段違いに暖かい。ホッと一息つくものの心は晴れない。
頭の中であのフレーズがこだまする。
タスケテ。
タスケテ。
タスケテ。
くそっ。
お前のせいで。
「はぁ」
力なくため息をつく。再び現れようとするさっきのフレーズを、頭を振って追い出す。
どうしてあんなことになってしまったのだろう。
後悔と自責の念が自分をさいなます。
だが、そんなことをしても彼女は戻って来ないのだ。
「趣味があわないくらいでなぁ」
ドッと疲れが身を支配し始め、整えられていないベッドの上にその身を預ける。
安売りで買ったパイプ式のベッドは、ギシギシと嫌な音を立てた。けれども今の俺にはそんなことを気にする余裕もない。
目を閉じると彼女の顔が浮かんだ。
軽蔑を露にして俺を見つめるあの瞳。
それが彼女の最後の表情だ。
「それにしても、こんなことくらいでなあ」
ベッドに置き去りにしていたケータイを手に取る。
この小さな通信機器は便利である反面、さまざまな危険をもたらす。
特に恋人同士ではかなり重要な意味あいをもつ。これで浮気をしているかどうかも調べることができるのだ。恐ろしい。
小さな密告者を放り投げ、ぐったりと横になる。
タスケテ。
タスケテ。
タスケテ。
実際には聞こえないのだが、頭の中では何度もリフレインされている。
嫌になる。
はじめこそ気に入っていたあの声も、今となってはうんざりさせるだけの騒音に過ぎない。
人間の感情とはそういうものなのだ。
しかしながら、
「そんなに趣味悪いかなぁ、この着声」
そうつぶやいた途端、ドンッという音が部屋中に響いた。
思わず「ヒャッ」と情けない声をあげてしまう。
なんだなんだ。
なにが起こったんだ。
隣の部屋の壁を凝視するが、もう音はしない。
恐らく壁を思いっきり叩いたのであろう。
喧嘩か何かだろうか。
こんな明け方から?
疲れも一気にひいてしまい、ベッドから身を起こし、壁にすりよってみる。
耳をすますと隣の部屋で乱暴にドアを閉める音がした。恐らく怒って部屋から出て行ってしまったのだろう。
壁にぴったりと耳をつけながら移動していると、小さい穴があるのに気づいた。
ポスターのすぐ脇にあったので、今まで全然気がつかなかった。
隣でなにが起こったのか気になり、そこから覗いてみる。
心臓がとまりそうになる。
そこから見えたのは人間の瞳だった。
「うわ」
声をあげ、身をのけぞらす。
まさかあっちからも見られているとは。
それも同じタイミングで。
心臓がバクバクと暴れている。
一呼吸おき、再びそっと覗いてみる。
まだある。
大きく見開きこっちを見ている。
恐ろしくなり、近くにあったガムテープでその穴をふさぐ。
男だろうか。
隣の部屋を覗く女性というのはなかなか考えがたい。むしろ隣の部屋を覗く男というのはいくらでも想像できた。現にここにも一人いるわけだし。
なんとなく薄気味悪い気もしたが、ふさいでしまえば見えないわけだし、気にせずに眠ることにした。もう六時過ぎだが、今日は学校もバイトもないから別に問題はない。
横になって目を閉じると、すぐに深い眠りにつけた。
ウチは日当たりがいいので、晴れていると部屋はすぐに暖かくなる。
日差しが強いときは暑いくらいだ。
その暑さのため目が覚めてしまう。
時計を見ると、一二時を回ったところだった。
大きく伸びをして、身を起こす。
何度かまばたきをすると自然と壁のガムテープに目がいく。
まだ見ているのだろうか。
あれから六時間は経過している。
ガムテープでふさがれたことだし、まだ見ているということは考えられない。
ゆっくりと起き上がり、壁まで歩いていく。
ベリベリとガムテープをはがし、再び隣の部屋を覗いてみる。
信じられないことに、そこから見えるものはさっきと変わらなかった。
異常だ。
こんなにも長い間、ずっとコチラの様子を窺っていたということか。
それともたまたま今、コチラを見始めたということか。
どちらにしても気持ち悪く、まともな神経の持ち主ではないような気がした。
背中に悪寒が走る。
ゆっくりと壁から身体を離し、テープを再び張り直す。
隣の部屋に誰が住んでいるか、よく分からなかった。
最近、彼女の家に入り浸っていることが多かったので、ここにはあまり戻っていない。
不気味だとは思いつつも、腹立たしく思えた。
覗きも立派な犯罪だ。
プライバシーの侵害である。
なにか一言言ってやろう。
そう思い、念のために護身用に買っていた鞘つきのナイフを後ろのポケットに突っ込む。最近ぶっそうになってきたので買っておいたのだ。覗きをするような変態は、何をするかわかったものではない。
顔も洗わず、表にでる。
そこで友だちから聞いた話を思い出した。
あるアパートの一室。そこにも隣の部屋が見えるような穴があったそうだ。そこに住んでいた男はつい好奇心に負け、隣の部屋を覗いてしまう。すると、今と同じようにこちらも覗き返されていた。不気味に思い、そこをふさぎ、数日経ってから見てみると、まだそこに目がある。これは異常だと思ったその男は隣の家に文句を言いに言った。けれども何度ドアを叩こうとも出てくる気配がない。男は管理人に事情を話し、鍵を開けてもらった。するとそこに人はいなかった。あるのは目を見開いた死体だけだった。ちょうどその死体の目が、穴のところにあり、いつ見ても覗き返されていたということだ。
これって、まさに今の自分の状況じゃないだろうか。
インターフォンを押す手が止まる。
もし押しても誰も出てこなかったら。
身体がブルッと震える。
まさか。
そんなことはどうせ作り話だろう。よくある都市伝説とかそういう類のものだ。
頭ではそう理解しつつも、なかなか手は動こうとしない。
なんとか勇気を振り絞り、そのボタンを押す。
ピンポーン。
反応がない。
緊張が高まる。
もう一度押す。
ピンポーン。
呼吸が止まる。
だが、すぐにガサガサと中で人が動く気配があった。
ドアがガチャリと開く。
中から出てきたのは髪がボサボサで無精ひげを生やした若い男だった。今まで眠っていたらしく、日の光にまぶしそうに目を細めている。
「えっと、どちらさまですか」
落ち着くように自分に言い聞かせ、男と対峙する。
「あの、隣の家の者ですが」
そう言った途端に男の顔が険しくなる。
覗きがばれたことをやばいと思ったのか、それとも男だと知って怒っているのか。
「なんの用です」
ぶっきらぼうに男は言葉を投げつける。
その険しい眼差しに耐え切れず、思わず目を逸らす。
「部屋に小さな穴が開いてるんですが」
「ああ、知ってますよ」
しらを切ると思っていたのだが、男はあっさりとその事実を認めた。
「そこからウチのことを覗かないで欲しいんです」
言葉が小さくなる。
「覗いてなんかいませんよ」
「だって、さっきも」
「さっき? 今まで寝ていたんですが」
さっきも思ったが確かに男は寝起きの顔をしている。
それは嘘とは思えなかった。
「誰か他に人が?」
「ああ。さっきまでいましたが、帰りましたよ」
ドアを乱暴に閉めていった主だろう。
ならば誰が見ているというのだ。
最悪な想像が頭をよぎる。
彼らは三人いて、一人が殺され、一人が逃げる。
今部屋の中には死体と彼がいる。
だがしかし、死体と一緒の部屋で眠れるものだろうか。
「すいません。ちょっと部屋を見させてもらっていいですか」
彼は嫌そうな顔を浮かべた。
「なぜです? 必要ないでしょう」
部屋の中に入れまいとする態度がますます怪しさを募らせる。
「お願いします。すぐ済みますから」
「嫌です。散らかってますんで」
そう言って彼はドアを閉めようとした。
考えるより先に身体が動き、俺はその間をくぐり部屋の中へ入った。
さっきの瞳の正体を確認しなければ。
土足のまま部屋の中に押し入る。
そして穴がある壁の方に目をやった。
あ。
そういうことか。
「ちょっと人の家に土足で入らないでくださいよ」
後ろから男の声がする。
俺はただその場で立ち尽くしていた。
「あれ、鏡の位置が変わってるな」
男はポツリとそうつぶやいた。
Feb. 23, 2004