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恋うらら

 申し訳ないと思った。
 隣で優しく話しかけてくれる彼の顔は、本当に幸せそうで、それを見ているだけで穏やかな気持ちになれた。けどその反面、なんてひどい女なんだろうと自分を責めた。
「チナツ、明日誕生日だよね」
 微笑みながら軽くうなずく。
「俺、どうしたら喜んでもらえるか、ずっと考えてたんだ」
 秋の日差しを背に、楽しそうに話すトシヒコさんの横顔を見ながら、わたしはますます自己嫌悪に陥った。
 わたしって、最低な女かもしれない。

 半年前、わたしの隣にいる人は、トシヒコさんではなかった。
 同じクラスのユタカだ。
 彼は頭の回転がよく、スポーツも万能で女子からの人気も高かった。そんな彼から告白されたとき、わたしは耳を疑った。「どうしてわたしなの?」と彼に尋ねると、照れくさそうに「笑顔がかわいかったから」と彼は言った。その言葉でお互いの顔は真っ赤になった。
 それからわたしたちは、周りもうらやむような仲のよさで、高校生活を幸せに過ごしていった。たまに喧嘩することもあったけど、何日も経たないうちにまた、またお互いに軽口をたたきあっていた。
 時の流れるのは早く、やがてわたしたちは受験生になった。
 全国でも屈指の難関国立大学を目指す彼に対し、わたしは地元の私立に入るのがやっとだった。何とかして彼と一緒の大学に行こうと、必死で勉強したのだが、それでもたかがしれている。彼と一緒の大学に入るなんてことは夢物語に過ぎなかった。
「俺、チナツと同じ大学行きたいな」
 ようやくヒーターが入り始めた放課後の教室で、突然彼がぽつりと言った。
 とてもうれしかったけど、それは彼の将来を狭めてしまう選択だと思った。彼にははっきりした目標があり、そのためにその大学を目指してがんばってきたのだ。それをわたしのために犠牲にするというのは、耐えられなかった。
「だめだよ。ユタカは今まで頑張ってきたんだから。わたしのためにとか、そんなのとにかくだめ」
 彼はさびしそうな笑顔を浮かべた。
 その顔をわたしは一生忘れることはできないだろう。
 胸が張り裂けそうになった。そのまま泣きながら、どこかに走って逃げたいと思った。
「そっか。……迷惑だよね。チナツのためとか言ったら」
 そんなことあるわけないじゃない!
 のど元まででかかった言葉を、わたしは必死で飲み込んだ。ここでそんなことを言ってしまったら、彼の言葉に甘えてしまうことは目に見えている。うれしいとか、ありがとうとか、そういう言葉は決して言ってはならない。わたしは黙って、困ったように微笑み、そのまま教科書に目を落とした。けれども、視界がにじんで、その文字を読むことはできなかった。

 それからわたしたちは先のことはあまり話題に出さなくなった。
 お互いそれを避けるようにして、くだらない話ばかりしていた。TVのことや、親に対する愚痴、友だちの噂話など、話題は尽きることがなかった。
 そして、彼は目指していた大学に合格し、わたしは地元の大学に合格した。
 新幹線で二時間。
 無限とも思えるような長さだった。すぐに会いに行ける距離ではない。経済的にみても厳しかった。
「遠距離恋愛になるね」
 映画を見た帰り道、彼が口を開いた。その言葉は確かにわたしの耳に届いたのだが、すぐに言葉は返さなかった。
 迷っていた。
「でも全然大丈夫だって。俺、全然浮気もしないし」
 そう言葉を続け、彼は笑った。その笑い声は屈託がなく、聞いているわたしまで幸せにしてしまう。ずっとその声を聞いていたいと思った。
 とても寒い日だった。
 冷たい風が容赦なく顔をつきさし、彼の鼻は真っ赤だった。たぶんわたしも同じなのだろう。
 葉をほとんど残していない木々がとても弱弱しく、寂しそうに見えた。
「別れよっか」
 決して自分から言うまいと思っていた言葉だった。
 さんざん迷った上、わたしはその言葉を選択した。
「え?」
 突然のわたしの切り出しに、彼はかなり驚いた。目をまん丸にして、わたしの顔を見つめる。その強い視線に耐えられず、わたしは思わず目を逸らした。
「何? 俺のこと、嫌いになった?」
 不安そうに尋ねる彼の声を聞いて、心が押しつぶされた。
 それを振り払うように首を強く振る。
「ううん。でも、わたし遠距離とか無理」
「そんなの、やってみなきゃわかんないじゃん」
「わかる。無理なの」
「だって、そんな……」
 死んでしまいたかった。
 自分で自分を苦しめる言葉。けれども彼をしばりつけることはしたくなかった。
 わたしという足かせを外してあげたかった。それが、彼のためだと思った。
「わけわかんないよ。何でそんなこと急に言い出すの?」
 その口調は少し怒気を帯びていた。わたしはただ黙って彼の言葉を受け止めた。とても悲しく、心を引き裂くような彼の言葉を。
「俺はチナツのこと好きなんだよ。どこにいたってその気持ちは変わらない」
「ありがと」
 もう涙を抑えることはできなかった。
「でも、わたし無理なの。遠距離とかは、耐えられない」
 どんなに距離が離れていても、ユタカを思う気持ちは決して変わらないだろう。
「何年も何年もユタカのこと待つなんて、辛すぎる」
 別れる方がよほど辛い。待てるものなら何年でも待っていたい。
「だから、別れよ」
 彼は言葉を発しなかった。
 沈黙が二人を支配する。
 永遠とも思えるような静寂。
 いつの間にか、はらはらと白い雪が舞い降りてきていた。彼の黒い髪や、広い肩にゆっくりと降り立つ。彼は軽く目を閉じながら、何かを考えていた。死刑の宣告を待っているような、そんな絶望感がわたしの身体を侵食していく。
 そして、
「分かった」
 という一言で、彼は静寂を切り裂いた。そして、ゆっくりとわたしの方に目を向けた。その目は切ないほどに潤んでいる。
「今までありがと」
 立っているのがやっとだった。そのまま地面に崩れ落ちてしまうのを必死に堪えた。ただうつむき、この時が過ぎるのを待った。地面にポツポツと水滴の跡がつけられていく。抑えようと思っても、どうしようもない程に嗚咽が漏れた。
「じゃあ」
 そう言うと彼は早足に真っ直ぐ歩いていった。
 待って、と、取り残される寂しさに、思わず言葉が出そうになったが、押し殺す。
 わたしに許された行為は、ただ涙を流すことだけだ。
 幾筋もの跡が、頬に残った。
 その日、街は真っ白に染まり、二年間の恋もまた、真っ白になった。

 春になり、新しい生活が始まった。
 あの日以来、ユタカとは全く連絡を取らなかった。
 何もかもどうでもよくなり、目の前が全てグレーにぼやけているような感覚だった。
 受験戦争から解放され、存分に大学生活を楽しんでいる同級生を横目に、わたしはただただ毎日を無為に過ごしていた。
 ある日、学部内での新歓コンパに参加することになった。あまり気がすすまなかったが、全員参加するようにと言われ、しぶしぶ行くことにした。端の方でぼんやりしていると、話しかけてくる男性がいた。
 それがトシヒコさんだった。彼は人懐こい性格で、笑顔がとても優しかった。二つ年上なのだが、そんなことを感じさせないくらい話しやすい人だった。彼と話しているときは、少しだけユタカのことを忘れることができた。
 その日がきっかけとなり、わたしとトシヒコさんはどんどん仲がよくなっていった。彼は親身になって、話を聞いてくれた。それまでの辛かった思い出が堰を切ったように、わたしの口からあふれ出た。そして、彼はその全てを優しく受け止めてくれた。わたしますますトシヒコさんを頼るようになっていった。
 何ヶ月かして、彼から「つきあおう」という言葉をもらった。少し迷ったが、わたしはそれを受けることにした。彼とつきあえば、ユタカのことを忘れることができるかもしれないと思った。話せば話すほど、彼の優しさが身にしみた。深かった傷はどんどん癒されていった。けれども、まだわたしはユタカのことを忘れることができなかった。こんな状況になってもまだ、ユタカのことを好きでいた。
 わたしはトシヒコさんのことを利用している。
 寂しさを紛らわすため、彼と一緒にいる。
 そういう考えが、ふとした瞬間に頭をよぎり、どうしようもないくらい嫌になった。こんなわたしの気持ちを知ったら、彼はどう思うだろうか。

「どうしたの、黙り込んで?」
 彼が優しく尋ねる。
「ううん。何でもない」
「そう?」
「うん。それより、明日、楽しみだな」
 できるだけ明るい声で言った。
 それを聞いて彼は少し悲しそうな顔をした。
「そうだな……。やっぱり今日にしようかな」
 そう言って彼は立ち止まった。うつむいたまま、少しの間黙っている彼の顔は、何かを決心しているようにも見えた。
「何? どうしたの?」
 少し不安になって声をかける。
 彼はまたもとの明るい顔に戻り、わたしの方に顔を向けた。そこには何か、決心のようなものが見えた。
「あのね」
 黙ったまま次の言葉を促す。
「誕生日にさ」
 彼は少し目を細め、遠くを見た。
「別れようか、俺たち」
 思いもしない言葉に、わたしは驚きを隠せなかった。
「え? わたし何か、嫌われるようなことしたかな」
 ゆっくりと彼は首を横に振った。いつもと同じ、優しい眼差しだった。それだけに、さっきの言葉は理解できなかった。
 いったいどうして?
 深く息をついてから、彼はゆっくりと話しだした。
「それが、チナツにとって一番いいと思うんだ。チナツ、まだ彼のこと好きなんだろ?」
 分かってたんだ。
 わたしは何も言葉を返すことができない。
「力になれるかなと思ったけど、結局苦しめてるだけだよね、俺」
「そんなこと……」
 彼はわたしの前に手を掲げ、言葉をさえぎる。
「俺がつきあおうなんて言わなけりゃよかったんだよね。そうすればこんなに悩ませることもなかったのに。ごめんね」
 あの日と同じようにまた、わたしの瞳からは涙があふれだしていた。
「ときどき、悲しそうに微笑むんだよね、チナツって。それを見るたび、俺も辛いんだ。これ以上つきあっていても、チナツに本当の笑顔を取り戻せないような気がする。だから、だからさ、もう別れよう」
 次から次へと涙が流れた。
 彼は全てを分かっていて、それでもわたしの傍にいてくれたんだ。
 そう思うと、自分の浅はかさが恥ずかしかった。
 そのとき何かが、わたしの中で変わったように思えた。
「あの、わたし……本当に勝手だけど、わたし、別れたくないです」
「え?」
「今のトシヒコさんの言葉を聞いて、心が晴れました」
 今までに感じたこともないような晴れやかな気持ちになり、わたしは恐らく自分至上最高の笑顔を見せた。
「わたし、トシヒコさんのこと本当に好きになりました」
 あの日とは違い、明るい日差しが全身を包んでいた。
 それはまるで、わたしたちのこれからを表しているかのようだった。

Oct. 1, 2003


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