聞こえる
怪しい。
確かに建物自体は古いが、造りはしっかりしている。どこかが朽ちているということもない。歩いてすぐのところにコンビニもあるし、一〇分も歩けば、駅だってある。
カツカツという音を響かせコンクリートの階段を上っていく。
確か二〇四号室のはずだ。
一番奥の方まで歩みを進める。表札は出ていないが、まず間違いない。何せ昨日、話を聞いたばかりなのだ。
玄関の脇に設置されたインターホンを押す。壊れているということもなく、内側からピンポーンという音が響いた。階段から下を見下ろすと、何台か止められている自転車が目に付いた。アキラが乗っているボロッちい黄色い自転車もそこにあった。
間もなくして、鍵がガチャリと鳴り、ドアが開かれた。
「やあ。よく来たね」
上にグレーのトレーナー、下は赤いラインの入ったジャージ。無精ひげを生やしたその顔は、どことなく怪しさを醸し出している。いつもながら服装に無頓着な男だ。
「まぁ、入ってよ」
そう言ってアキラは奥に引っ込んで行った。俺もその後に続く。入ってすぐに台所があり、洗われていない食器類が散乱していた。ゴミも長いこと捨ててないらしく、二袋ほど台所の脇に置いてある。右手に台所で、左手がユニットバス。別段、おかしなところはない。
「外、寒かったでしょ。ま、適当に座ってよ」
「ああ」
敷かれていた座布団に腰を下ろす。
部屋は八畳ほどだろうか。一人で住むには十分な広さだ。左奥にベッドが置かれ、右の隅にテレビ、真ん中にプラスチック製の小さなテーブルが置かれている。曇り空のためか、洗濯物が右手の壁にたくさんかかっていた。食事中だったらしく、テーブルの上にはカップめんの容器と、半分ほど食べられた弁当がある。
「お前、これやっぱ怪しいよ」
アキラは、すすっていた麺を吹き出しそうになった。
「おいおい、開口一番それかよ」
咳き込みながら、ティッシュを何枚か引き出す。拭き終わった紙の固まりを、ゴミ箱に向かって投げる。しかし、そのシュートは決まらず、それをリトライすることもない。なるほど、部屋が汚れるわけだ。
「月、いくらだっけ?」
コーラを流し込んでいるアキラに、先程から感じている謎を投げかける。
「サンマン」
ふぅと一息ついた後に答えが返ってくる。何とか落ち着きを取り戻したようだ。
「円だよな」
「当たり前だよ。日本のアパートなのに、ペソとかウォンとかで払うトコがあるかよ」
「なら、絶対おかしい。何かある」
明らかに嫌そうな顔を見せるアキラ。そんなことはおかまいなしの俺。
「何かって?」
恐る恐る質問を投げかける彼が、若干かわいく見えた。
「そりゃお前、霊とかだな」
大きく両手をバタバタと振り、アキラは顔を逸らした。
「やめてよ。苦手なんだ、そういうの」
「しかしだなぁ。この立地条件で三万はないだろう。大家は何か言ってなかったのか」
「別に何も。すんなり決まったよ」
「すんなりというところが、また怪しいな。厄介払いみたいで」
言い終わってから、改めて部屋を見回す。
日当たりも決して悪くないようだ。これで月三万とはますます信じがたい。
「ちょっといろいろ見ていいか」
「いろいろって?」
すっかり食欲がうせたようだ。箸が止まっている。幾分、気の毒に思ったが、気にせず部屋の中を見回してみる。
「あの絵って、お前のか?」
この部屋には場違いな感じの、深い緑の森を描いた風景画が、洗濯物の陰にかけてある。大きさは横が四、五〇センチ、縦が三〇くらいだろうか。
「いや、なんかあったよ、もとから。結構きれいじゃない?」
あっけらかんと言う彼の言葉が信じられなかった。普通引っ越してきた部屋に絵が飾ってあったら不審に思わないだろうか。少なくとも俺はそう思う。しかも、そんなものをきれいだと思っている神経がさらに信じられない。きれいとかそういう問題ではないだろう。
「怪しいよ、あれ」
「何で? 本当?」
「普通さ、引っ越してきた部屋に絵なんか飾ってあるかよ。そこでまずおかしいと思え」
「そりゃ思ったよ。でも、ま、いいかなって」
「ま、いいか、じゃないよ。それがおかしい。まともじゃないよ、お前は」
パンツやら何やらの洗濯物をどかし、絵を取り外す。陰で暗くなっていたためか、外してみると結構色鮮やかなグリーンだった。不吉な感じは全くしない。青々と茂る緑と、それを映す湖。絵の方を表にして、弁当の隣に置く。
「よく聞く話だが」
そこでいったん言葉を区切り、間を空ける。アキラのつばを飲み込む音が聞こえた。
「ホテルや旅館の部屋で、死んだ人がいると、絵の裏にお札が張ってあるという」
俺の言葉に、彼は目を真ん丸くしている。どうやらこんなメジャーな話に、まだ出会ったことがないようだ。子どものころの怖い話によくでてくる類だとは思うのだが。
「そ、そうなの?」
黙って頷く。アキラは今にも泣きそうな顔をしている。ひげ面のくせに。
「この絵の裏、見たことあるか?」
「いや、外したこともないよ」
その話を聞いて以来、俺はかならずホテルや旅館の絵を外すことにしていた。幸い、今のところ当たりに出遭ったことはない。
額の上に少しホコリがかぶっているところを見ると、その言葉に偽りはないようだ。だいたいここで嘘をついても何のメリットもない。とりあえず、絵を前にして、呼吸を整える。表のまま置いたので、裏はまだ見ていない。少し心の準備がいる。何回もやってきた儀式とはいえ、若干の緊張はするものだ。その行程をアキラはただ黙って、見守っている。
「ねえ、これであったらどうしよ」
不安の眼差しを向けながら、アキラが聞いてくる。
「知らんよ、そんなこと。引っ越せば?」
「そ、そんな。引っ越してきたばかりなのに」
「じゃ、住んでればいいだろ」
冷たく言い放つと、アキラはまた、だんまりモードに変わった。これからの生活がかかっているのだ。ナーバスにもなるのも当然だろう。だが、そんなことは知ったことじゃない。俺はただ好奇心のみで動いていた。
一瞬の間。
「はあぁ」
それを破る、アキラのため息。
「よかった、何もないじゃない」
安心しようとしている彼を手で制止し、また不安をあおる言葉を放つ。
「まだわからん。この額の中に仕込んであるのかもしれない」
もう勘弁してくれといった様子で、彼は頭をがしがし掻いた。そんな彼を尻目に、額の台紙を取り外しにかかる。若干の緊張が再び訪れる。もし当たりだったら、俺にも何か悪いことが降りかかるんではないか、という不安がかすかによぎる。けれどもそれは、好奇心を抑えるまではいかない。
わずかに震える手で、ゆっくりと台紙を外す。
二人の呼吸が止まる。
ない。
そこにあるのは絵だけだった。
台紙にも絵の裏にも、それらしきものは見当たらない。がっかりしたような、ほっとしたような気持ちが全身を包む。アキラは再び大きく息を吐いた。
「やっぱり何もないじゃない。驚かせないでよ」
そのとき、俺の耳は確かに何かを聞いた。
それはもちろん彼の声ではない。
テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、すぐさまテレビのスイッチを切る。
「シッ」
人差し指を立て、彼の声を封じる。緩んでいた彼の表情が、再び緊張を帯びる。
「今、何か聞こえなかったか」
自然と声が小さくになる。どんどんと緊張が張り詰めていく。
「何かって? 他の部屋の声とかじゃないの?」
アキラもつられて小声になっている。
二人で耳をそばだてる。
タ……スケテ。
「ひゃっ」
思わずアキラは声を上げた。俺はその声にびっくりした。だが、確かに今、人の声を聞いた。彼の反応を見れば、俺だけに聞こえているわけではなさそうだ。くぐもった、押し殺したような女性の声が、かすかに二人の鼓膜を震わせた。
「聞こえたか?」
アキラは何度も首を縦に振った。もう泣き出す寸前の顔である。正直俺も逃げ出したかった。
タス……ケテ。
これはマジでやばい。幻聴であってくれと思ったが、そうもいかないようだ。全神経を集中し、声の出所を探る。アキラは必死に神に祈っているようだった。目をぎゅっとつぶり、手を合わせている。今までいた彼の部屋が、一気に異空間に変わる。冷め切った弁当もどこか非現実的な感じがする。
タスケ……テ。
相変わらず同じトーンの声が繰り返される。聴覚をフル活動させ、その出所を探る。
「もしかして」
壁にかけられた洗濯物に目を向ける。今までこの絵がかけられていたところだ。
「隣、どんな人が住んでる?」
拝み続けるアキラに言葉をかける。拝むのをやめ、記憶の糸を手繰り寄せている彼をただ見つめる。
「確か、カップルが住んでいたと思うんだけど」
「住んで、いた?」
「最近あまり見ないんだ」
立ち上がり、壁に向かう。洗濯物の層を次々と引き剥がしていく。
「やはり……か」
絵を外したときは洗濯物の陰で気づかなかった。小さい穴がそこにあった。直径一センチほどの大きさで、よくドアについている覗き穴くらいの大きさだ。ゆっくりとその穴を覗き込む。
縄でしばられ、口をふさがれた女性がそこには……なかった。
誰もいない。光はかすかだが、家具の形は何とか判別できる。人がいるかいないかくらいの判断はできた。そこに見えるのは、ぐちゃぐちゃの毛布がかけられているベッドと、テレビ、小さなちゃぶ台。異常なところはなく、いたって普通で、血痕の後などももちろん見られない。
「何か、見えた?」
アキラが座ったままで声をかけてくる。俺はただ首を横に振った。
「何もないな。確かにここだと思うんだが」
そう言って、壁から離れようとしたとき、またあの声が飛び込んできた。
タスケテ。
間違いない。
この部屋から聞こえてくるのだ。
これだけ近くにいるとそれがはっきり分かった。鳥肌が立つ。
「誰もいない。けれども声はする」
タスケテ。
それだけ言い、その場に立ちすくむ。
どういうことだ。
しばらく突っ立ったままで、放心していた。
声はしばらく続いたが、そのうちピタリと止んだ。
結局その日、どうしてもというのでアキラの家に泊まることになった。気が進まなかったが、悪ノリを始めた手前、無下に断ることもできなかった。あれから声は一切聞こえなかったが、俺たちはほとんど眠ることもできず、そのまま朝を迎えた。日が昇り、だんだんと明るくなってきても、一向に暗い心境は変わらなかった。
どうして隣から声が聞こえるのか。
どうしてその声の主は見えないのか。
謎は深まるばかりだ。
「隣の家、帰ってこないな」
ポツリとつぶやく。けれどもアキラはウトウトしており、その声には反応しなかった。
午前五時四二分。
隣の家のドアが開く音がした。
弛緩しはじめていた緊張が再び張り詰めていく。ずっと眠れずにいた俺はある種の興奮状態になり、神経が研ぎ澄まされていた。隣の住人が入ってくる足音がかすかに聞こえる。もっとよく聞こうと思い、壁に耳を近づける。アキラは起きる気配がない。このまま寝かしておいたほうがよいかもしれない。
足音は……一人か?
カップルではない?
ガサガサと荷物を置く音がする。
「はぁ」
ため息が聞こえる。恐らくあの壁の穴から入ってくるのだろう。息遣いまでもが聞こえてきそうだ。壁から中を覗こうとも思ったが、なんとなく危険な感じがしてやめておいた。もし、あちらから覗かれでもして、目が合ったら最悪である。下手すれば失神するかもしれない。できるだけ、リスクは冒したくなかった。ただただ壁に耳をつけ、その動向を窺う。
「いなくなっちゃったな」
若い男の声だ。二〇代前半、もしくは一〇代後半か。少し疲れている感じの声。今まで何かしてきたのだろうか。
「趣味があわないくらいでなぁ」
ギシッときしむ音がする。ベッドの上に乗ったのだろう。
「それにしても、こんなことぐらいでなあ」
ギシギシとベッドのきしむ音が再び聞こえる。そのギシギシという音がなんとも恐ろしさを演出している。一段と緊張が高まり、冷や汗が背筋を走る。
こいつが何かしたのか?
「そんなに趣味悪いかなぁ、このチャクゴエ」
チャクゴエ?
着ゴエ……チャク声……着声!
全てを悟った俺は力の限り、壁を殴った。
「ヒャッ」
という情けない声が、向こうとこちらで、同時に発せられた。
Oct. 10, 2003