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密室恋愛劇場

 自分の能力以上の仕事を押し付けられれば、当然決められた時間内では終わらない。
 どうしてそんな簡単なことが分からないだろうか。いくら俺が人より仕事ができるからといって、それにも限度がある。自分はできないくせに、人に膨大な仕事をまかせるような頭の悪い上司は、さっさといなくなればいい。世の中は本当に頭の悪いやつばかりでうんざりする。
 オフィスにもう人はほとんど残っていないが、それでも数人は必死にモニターとにらめっこしている。こんな遅くまでご苦労なことだ。恨むなら馬鹿な上司と、自分の能力のなさをうらめばいい。
 椅子にかけていたスーツをはおり、席を立つ。こんな夜遅くだというのにビルの中は煌々と明かりが灯っている。改めて電気の偉大さを思い知らされる。こんなに酷使されているのに、不平のひとつも洩らさない。彼らは尊敬に値する。社のやつらとは大違いだ。たいした能力もないくせに、不満だけは一丁前。もっと自分のことを省みるべきだ。それくらいの謙虚さくらいも持ち合わせていないとは。
 エレベーターのボタンを押す。間が空き、扉が開く。あくびをかみ殺しながら、乗り込むと「待ってください」という声が聞こえた。咄嗟に開のボタンを押し、ドアが閉まるのを防ぐ。息をきらしながら、若い女性が乗り込んでくる。肩にかかるくらいの赤っぽい茶髪。黒のタイトなスカート。鼻につくような甘い香り。思わず顔をしかめる。
「すいません。ありがとうございます」
 そう言うと彼女は閉のボタンを押した。
 室内に彼女の匂いが満ちていく。

「あなたって感情がないの?」
 めくれあがったシーツを直しながら、けだるそうに遥子が言った。ポンと投げ捨てるようなその言葉を無視し、俺は煙草に火をつける。紫煙をくゆらせながら、ソファに深々と腰をかける。適度に深みのあるソファは俺の身体をゆっくりと沈めていく。肺まで吸い込んだ煙をゆっくりと吐く。
「こんなこと聞くわたしが馬鹿だったわ」
 自分の愚かな質問に気づいた遥子は、脱ぎ散らかされた衣服を集め、それをひとつひとつ丁寧に身につけていく。何度も見慣れた光景で、恥ずかしさはない。そこにはあるのは淡々とした空気だけ。まるで手馴れた作業のように、それぞれが自分の役割をこなし、終極へと向かっていく。後に残るのはわずかな快楽の余韻と、鬱々とした感情のみ。なぜこんなことを続けるのか、考えるのも面倒くさい。
「わたしたち、いつまでこんなことを続けるのかしら」
 まるで他人事のように軽い口調で遥子は言う。
 継続か破局。
 決めるのは自分たちなのに、そんなことは露ほども感じさせない。そういう乾いた性格は嫌いではなかった。むしろ、そうだからこそ、付き合っていけるのだろう。じめじめと女々しいだけの女は御免だ。互いに干渉せず、適度に触れ合い、勝手に生きていけばいい。寄り添う必要なんてない。人間はひとりなのだ。

 突然、照明が落ち、二ヶ月前の記憶から引き戻される。女は「きゃっ」と短い悲鳴をもらした。俺は思わず舌打ちし、上を見上げる。階数の表示も消えていた。
「故障かな」
 沈黙しているのも具合が悪いので、そう尋ねてみる。突然声をかけられたことに驚いたのか、彼女は肩をびくっと震わせる。もしかすると身の危険を感じているのかもしれない。こんな密室で若い男女がふたりきり。何かが起こってもおかしくはない。
 もちろん俺以外の男なら、だ。
 あいにく俺にそういう気はないし、なにより暗闇というのは苦手だった。突然訪れた闇に、若干鼓動が早まる。
「大丈夫、すぐに直りますよ」
 自分を落ち着かせる意味も含め、できるだけ明るい声を出す。いらぬ不安を募らせないように。
 赤く光る非常用のボタンを押してみるが、まるで反応はない。軽くため息をつき、非常連絡用の受話器をとる。
「もしもし。誰か。誰かいませんか」
 こちらも反応なし。いくら夜中だといっても、職務は全うすべきだ。苛立ちながら、乱暴に受話器を戻す。その音にびっくりして、また女は「きゃっ」と声をもらす。俺は「すみません」と謝り、彼女とは逆側の壁によりかかった。夜中まで残業させられた上に、足止めをくらうとはついてない。ポケットを探り、携帯を取り出す。ボワッとディスプレイが灯るが、見えるのは圏外の文字だった。ビルの中では電波が入るのに、ここでは入らないのか。まったくどいつもこいつも使えないやつばかりだ。

「わたしたち、もう終わりにしましょう」
 フォークとナイフをおき、ナプキンで口をぬぐい、一息つくのと一緒にそのセリフを吐き出す。「あまりおいしくなかったわね」というような、さほど感情のこもらない感じで遥子は言った。あまりにも自然なその動作に、俺も自然に「ああ」と一言だけ答えた。
 一年半。
 俺にしてはよく続いた方だ。他の女と違って、べたべたしてこない遥子には好感がもてた。好感という感情だけで、こんなに長く続いただのだから、よくやったと言うべきではないか。
「やっぱり、あっさりしてるのね」
 少し悲しそうに遥子が言った。「そんなことはないよ」と否定しながらも、心の中ではもう彼女との思い出がセピア化し始めている。過去のものは過去のものと割り切り、次のことを考える。今までそうやってきたし、これからもそれは変わらない。何事も合理的に考えられない人間は愚か者だ。
「あなたが本当に人を愛せる日は来ないと思う」
 ゆっくりと遥子が席を立つ。見上げると彼女は泣いているように見えた。内に感情を押さえ込もうとするが、それでもわずかな感情が溢れてしまう、そういう感じに見えた。遥子が泣くところを見るのは、そのときが最初で最後だった。
 デザートのアイスクリームに手をつけないまま、遥子は俺から立ち去って行った。

 再び照明がつく。
 ようやく復活したのかと思い、上を見上げるが、階数表示は消えたままだった。どうやら照明だけ非常電源に切り替えられたようだった。ほっとした分、余計に腹が立つ。女の方に目を向けると、どうやら泣いているらしかった。顔をうつむけたまま肩を上下させている。エレベーターが止まったくらいで泣くなんて。俺は大きくため息をついた。
「大丈夫ですか?」
 できるだけ優しく声をかける。すると、涙をぬぐいながら彼女はこっちを振り返った。その顔にはまだ幼さが十分に残っていて、濃い目に被せられた化粧がアンバランスに思えた。見慣れない顔なので、このビルの人ではないのかもしれない。ここにはいろんな会社が入っていたが、それでもだいたいの人の顔くらいは見覚えがある。
「すいません」
 短く深く息を吸うと、彼女は俺の方を見て微笑んだ。いたずらを見つかった子どものような、思わず許してしまいそうになる笑顔だった。高校生と言われてもおかしくないくらいの若さがそこにはあった。
「ちょっといろいろあって、つい」
「ああ」
 別に止まったエレベーターが原因で泣いていたわけではなさそうだ。辛いことがいろいろあり、その溜まっていたものがエレベーターの停止という引き金によって、溢れ出てしまったのだろう。
「わたし、今年入社したばかりなんですけど、仕事に馴染めなくて」
 彼女は自分の身の上を話し出した。いつもならそんなことに耳を貸すタイプではないのだが、こんな閉塞された空間では他にすることもなく、無視するのもさすがに気が引けて、大人しく聞くことにした。仕事上のトラブルとか、嫌な上司、セクハラまがいのことをする男の同僚とか、次から次へと溜まっていたものが吐き出されていく。「ああ」とか「へえ」とか適当な相槌を打ちながら、彼女の吐き出し作業に手を貸した。よくもまあこんなに嫌なことがあるものだと途中で感心してしまう程、彼女の悩みは膨大だった。話を聞くうちにどんどん彼女に感情移入していく自分に気づき、はっとする。人との関わりを極力さけ、女と付き合うときもあまり干渉してこなかった俺にとって、人の感情をストレートにぶつけられるという経験は皆無に等しかった。こういう異常な状況も手伝ってか、俺の感情に異変が起きつつあった。
「できるだけ大人に見られようって、こういう格好をしてるんですけど、どうも馴染めなくて」
「ああ。やっぱり」
「分かりますか?」
「うん。なんだかアンバランスだなって」
「そうですか……」
「無理することないと思うよ」
「え?」
「自分は自分なんだから。それ以上でもそれ以下でもない。だから着飾る必要もないし、卑下する必要もない」
「そうですね」
「そうだよ」
 彼女の顔がほころぶ。つられて俺も思わず微笑んでしまう。こんなに自然に笑えたのはいつ以来だろう。笑い方なんて忘れてしまったと思っていたが、そんなことはないらしい。
「ありがとうございます」
「え? なにが?」
「話、聞いてもらって。すっきりしました」
「ああ。構わないよ」
 深々と頭を下げる彼女を手で制す。
 そこでガタンと密室が揺れる。彼女がバランスを崩し、俺の方に倒れ掛かる。そのまま俺が抱きかかえる形になる。彼女は少し驚いたようだったが、そのまま身を預けている。
「動き出したみたいだね」
「そうですね」
 自分の顔のすぐ下で彼女の声が聞こえる。
 もう他人とは思えなかった。
「実は俺、こんなに人の話をまともに聞いたの始めてかも」
「そうなんですか?」
「うん。なんか変な気持ちだよ」
「迷惑、でしたか?」
「いや、その逆」
 そう言って微笑みかけると、彼女も微笑みで返してくれた。
 ピン、と電子音が鳴り、エレベーターが一階に着いたことを知らせる。扉が開くのと同時に、彼女は俺から身を離した。先に下りる彼女の背中に「あの」と声をかける。
「これから何か予定あるかな?」
「どうしてですか」
「いや、飲みにでもいかないかなと思って」
 初めてかける誘いの言葉に戸惑いを感じつつも、感情を抑えることができない。
「つり橋の実験ってご存知ですか?」
「え?」
 予想していなかった彼女の返答に、まぬけな声を返してしまう。
「情動二要因理論です」
「な、なんのこと?」
「つり橋を渡ることで感じる『恐怖』のドキドキと『恋愛』のドキドキ。それを人間は区別できていないそうです」
 黙って話を促す。
「つまりあなたは暗闇によって生じたドキドキと、恋愛感情を混同しているわけです」
 これがさっきまでオドオドしていた女性と同一人物か、というくらいの変貌だった。あくまでも論理的に冷静に、淡々と言葉をつむいでいく彼女に空恐ろしささえ覚えた。
「あなたには恋愛感情が起きたかもしれませんが、生憎わたしにはそんな感情は全くありません」
 冷笑する彼女に全身の血が引いていくのが分かった。
「全部、嘘だったのか?」
「ええ」
 とびきりに可愛く、恐ろしい笑顔だった。小悪魔というより、悪魔そのもの。人間ではないものに対峙しているのだという感覚がはっきりと感じられた。
「前もって、少しは考えていたんですが、ほとんどアドリブです」
 仕事の話、上司の話、同僚の話。
 あれが全部その場で考えられたもの?
 どういうことだ。
 彼女はいったい、何を言っているんだ?
「エレベーターが止まったのは?」
「それも予定されていたことです。警備の人に頼んだんですよ。いろいろ手を使って」
 なんて女だ。
「ああ。ただ一つ、普段はこんな格好していないっていうのは本当です」
「どうしてこんなことを?」
「実験ですよ。本当に心理学が役立つかの」
 言葉を失う。ただの実験で感情を左右されてしまった自分に腹が立った。
「ご協力ありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げ、颯爽と立ち去っていく彼女。俺は怒りの声を投げつけることもできず、ただ立ちすくんだ。
「あ、もしもし」
 携帯で電話をかける女の声が耳に突き刺さる。
「お姉ちゃん? どうやら賭けはわたしの勝ちみたいよ」

May 26, 2004


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