短編小説・ショートショート【極楽堂】
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彼の戦慄
人通りの多い駅の近くの牛丼屋と、少し郊外にある牛丼屋。忙しいのはどっちか。
そんなの当然駅前だと思うかもしれない。
けれども郊外は郊外なりの忙しさがあるのだ。
牧野泰斗はバイト初日にそのことを痛感させられた。街外れなんだから、どうせ暇だろうと高をくくっていたのが大間違いだ。
駅前の場合客は一人の場合が多い。駅から吐き出されたサラリーマンや、予備校帰りの浪人生などが歩いて店に入ってくる。
それに対し郊外の場合、客が徒歩でくることはまずない。だいたいが車だ。たとえそれまで暇だったとしても、四人乗った車が二台も来れば、一気に八人の来店になる。
料理によっては一度に四人前くらいしか作れないので、八人同時に注文を出されるとさばききれなくなる。それで一瞬で忙しくなるというわけだ。
窓の外からやってくる夫婦を見ながら、泰斗はまたため息をついた。
「いらっしゃいませー」
心とは裏腹に身に染み付いた営業ボイスが口から飛び出す。
入ってきた四十代くらいの夫婦は、何やら深刻そうな顔をして食券を買っている。
今のところ、料理は全部出せているので、二人くらいなら何の問題もない。
カウンターについた二人から食券を預かる。今日はもう二人バイトの子が厨房に入っており、手持ち無沙汰だった泰斗は何の気なしに二人の会話を聞いていた。
「どうしようかしら」
女性がため息をつきながら男に尋ねるが、男は黙ったまま水を飲んだ。
「ねえ、あなた」
「ああ」
それ以上聞いてくれるなという表情で男は女の質問をさえぎった。
そしてまた女性はため息をつく。
一体何があったのだろう。
気になって耳をそばだてていたが、入り口のチャイムの音が聞こえたので反射的に「いらっしゃいませー」と声を出した。
入ってきた男を見てギョッとした。
真っ青な髪に細いサングラス。もう春も半ばだというのに全身を包む黒い皮のコート。どう考えてもお友達にはなりたくないタイプだ。全身から怪しさが満ち溢れている。
それでも客には変わりないので、とりあえず食券を取りに行く。男はこちらの方を一瞥もせず、黙ってテーブル席についている。声をかけるのが躊躇われたので、いつもの注文の確認をせずに、食券を受け取る。
一体、何者なのだろう。
厨房に戻ると、後輩の大学生が「またか」と心底嫌そうにつぶやいた。
「知ってるの?」と尋ねると、彼は苦虫をかみつぶしたような顔をする。
「ええ。先週も来たんです。大変だったすよ」
「大変って何が?」
「しょうがの箱を倒すわ、肉が少ないと大声で怒鳴り散らすわ」
「まじ?」
「まじっすよ。ほんともう勘弁してくれって感じで」
「うげ」
厨房からちらりとのぞいてみると、今のところ男は不審な行動はしていない。
ただ黙って座っているだけだ。
「先輩、並と温玉できたんでお願いします」
「え、おれが?」
「この時間担当ですよね」
「そうだけど」
「頼みますよ。おれいやですもん」
「おれだっていやだよ、そんなの」
「マジお願いしますって」
「やだよぉ」
お互い譲り合ったものの、こうしている間に料理が冷めてしまったら、それはそれで問題になりそうだったので、しぶしぶ泰斗が行くことになった。厨房を後にする彼に向かって、後輩の男は「先輩、ガンバっ」と体育会系女子高生みたいな声をかけた。
近づくにつれ、背中に嫌な汗がにじむ。
無事に済むのだろうか。
男はさっきの状態から微動だにせず、じっと座っている。
「牛丼並盛りと、温泉卵お待たせいたしました」
手が震えないように注意しながら、慎重にどんぶりをテーブルに置く。
料理を前にしても相変わらず男は動かない。
「どうぞごゆっくりお過ごしください」
心にもないセリフを口にしながら、その場を後にしようとすると「おい」と声をかけられた。
げ。
一瞬心臓が飛び上がる。
まじかよ。
身体中の血が一気に引いていく。
「な、なんでございましょう?」
無理やりに笑顔をはりつけ、魔のテーブルに振り返る。
明らかにさっきまでの静の雰囲気から動の雰囲気へと男は変化していた。
「お前、これ、どこの温泉の卵だ」
「は?」
予想外の質問に戸惑う。
「どこの温泉で作った卵かって聞いてんだよ」
ここから一番近くにある温泉だって車で一時間はかかる。
「え、えーと。これは温泉卵のように半熟状になっているだけで、実際に温泉で作っているわけではないんですが……」
言い終わる前に男がテーブルを「バンッ」と大きく叩いた。
思わず口から「ひぃ」と声がもれる。
「お前、それじゃ詐欺だろうがっ!」
男は本気で激昂している。
なんで温玉のせいでこんな目に。
「も、申し訳ございませんっ」
とりあえず頭を下げるが、男の怒りは収まりそうにない。だいたいこんな理不尽な怒り方をする男にまともな対応が通じるとは思えなかった。
そのとき入り口のチャイムが鳴ったが、さすがにこのときばかりは、いつものセリフも口から現われなかった。代わりに助けを求めるように周りを見渡すが、誰もこちらを見てくれなかった。店内は七人客がいたが、誰も自分の姿など見えないかのようにごはんをかっこんでいる。見知らぬ他人の危機よりも、目の前の丼を取るとは。日本ももうだめだな。
「お前、ふざけてんのかっ」
どんどんヒートアップしていく男に反比例するように、泰斗の体温は下がっていった。この男はどう考えてもまともではない。頭の中で「ヤバイヤバイヤバイ」と連呼するが一向に助けはこない。
孤独。
今年で二十三になる泰斗は思わず泣きそうになった。
そんなことは気にする素振りも見せず、さらに男は怒りまくり、またしても「バンバンッ」と机を叩いた。その男に合わせて、泰斗の身体もびくびくと震える。
すると今度は、立ち上がって泰斗に詰め寄ってきた。逃げようとしたが、ちょうど端の席だったため、壁と男に挟まれるかたちになった。
「おれのこと、なめてんのか?」
なぜ注文通り料理を持ってきただけでこんなことになってしまったのか。
やはり後輩に変わってもらえばよかった。
今日休めばよかった。
てか、こんなバイトしなけりゃよかった。
次々と後悔が頭に浮かんでくる間に、頭に強い衝撃を感じた。
男が泰斗の襟元をつかんで強く壁に押し付けたのだ。
突然のことだったので、どう対処していいかわからず、されるがままに泰斗は壁に押し付けられた。手から伝わる男の怒りが、きつくしめられた襟を通して泰斗に流れ込んでくる。
孤独だ。
客席の誰もこっちを見もしない。
事なかれ主義の現代人たちは、道端に死体があったとしても、そのまま通り過ぎるのではないだろうか。なんでこんな世の中になってしまったのだろう。
厨房に目をやるものの誰の姿も見えない。
殴られるのだろうか。
血は出るのか。
入院か。
まさかこのまま死ぬのか?
これも殉職ということになるのだろうか。
そのとき、向こう側から一人の中年の男性が、眉間にシワをよせながら、こっちに歩いてくるのが見えた。恐怖のあまり嗚咽をもらしていた泰斗の目から思わず涙が落ちる。つかつかとこっちに向かってくる男性がとても頼もしく見えた。まだまだ日本も捨てたものではない。
男性はすぐ近くまでくると怒気をはらんだ声でこう言った。
「兄ちゃん、早く食券取りにきてよっ」
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