短編小説・ショートショート【極楽堂】

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迷惑な彼女

 きっとあの女は日本語が分からないのだ。
 心地よい揺れをもたらす電車の中、わたしは不快感を募らせていた。
 七人掛けの一番端に座っている若い女。
 偏差値の低さをアピールするかのように着崩した制服に、もはや原形をとりとめていない厚化粧の顔。素顔がどんなものか、想像すらつかない。
 さっきから三度目になる電車のアナウンスは、車内での通話を禁じるものだったが、依然としてあのバカ女は、大声で会話を続けていた。
「だからぁ、そんなんじゃないってぇ。そういうことじゃないのぉ」
 そして繰り返される「ぎゃはははははは」というバカ笑い。
 こうやって日本の品性は損なわれていくのだ。
「オシトヤカ」や「ツツマシサ」というのは、すでに死語なのだろうか。
 車内は比較的空いていたが、それでも女と同じ並びのイスに、二人の男性が座っている。
 一人は五十代くらいのサラリーマン風の男。
 もう一人はシャカシャカとヘッドフォンから音をもらしている、学生風の男だ。
 自分の世界に没頭している学生はまだしも、サラリーマンは、たまったものではあるまい。何しろもう三十分近くも騒音公害を被っているのだ。目を閉じたところで眠れるものではない。
 一家の大黒柱であろう彼に、叱責の言葉を期待したが、その気配は一向になさそうだ。
「ただ一緒にご飯食べただけだって。その後はすぐ帰ったよぉ」
 意味のない不毛な会話が続けられる。
 それとともに車内の不快指数も高まる。
 誰も言わないなら、わたしが言った方がいいだろうか。
「ほんとにほんとだって。マジありえないから」
 お前の存在がありえないっての。
 心の中で毒づいても、所詮あの女には届かない。
 それが届いているようならば、とっくにあの女はわたしに殴りかかってきているだろう。
「つーかぁ、あんたの方こそ浮気してんじゃないの? この前サトミが見たって言ってたし」
 果たしてなんと言えば、あの女に伝わるのだろうか。
 日本語で大丈夫かしら。
「だからぁ、あんたが女と二人で歩いているとこよぉ。年上の女だったらしいじゃない? 大学生? 専門?」
 ドアの側に立っているおばさんがさっきからあの女をにらんでいるが、そんな視線は一切感じていないようだ。恐竜なみの鈍感さに半ば感心する。
「ほら、正直に言いなさいよ。こっちには証人がいるんだから。え? なに? はぁ? そんな勉強ばっかりしてるヤツのどこがいいのよ。どうせ牛乳ビンの底みたいなメガネしてるんでしょ」
 今どきそんなやついるか。
 それだったらわたしみたいにコンタクトにしてるっつうの。
「んで、その女とヤッたわけ? またまたぁ。どうせヤッたんでしょ? あんた手早いもんねぇ」
 その下品な言葉に思わず顔が紅潮する。
 若い女性が車内で大声で話すような内容ではない。
 どうやら常識とか恥じらいとかいった類のものも持ち合わせてないらしい。
「でもぉ、アタシはやってないからねっ。だから浮気してんのはあんただけ。わかった?」
 周りの大人たちが宇宙人でも見るような目で女のことを見ている。
 この女は一体何語を話しているのだ、と彼らの顔は物語っていた。
「んじゃ、つーわけだから。うんうん。そろそろ着くから。うん。あ、どっちのホームにいる? 東口? オッケー。んじゃねー」
 予想外の言葉にみなが唖然とする。
 この女、今から会う男と何十分も電話してたのか?
 そんな緊急な用事でもないし、会ってから話せばいいだろうがっ!
 車内の誰もが目でそうつっこんでいた。
 ようやく収まってくれたのはありがたいが、この駅でわたしも降りるのだ。一緒の駅で降りるというのはなんだか腹立たしい気もしたが、仕方あるまい。せめて違う出口から降りようと思い、車内の後方まで歩く。
 自動ドアが開き、ホームに降りる。
 ここにくるのも一ヶ月ぶりだ。
 人の流れから少し外れ、スーツケースを置く。ポケットから携帯を取り出す。
「あ、もしもし、サトシ? 今何してた? えっ? 駅にいるの? やだ、すっごい偶然。わたし、驚かせようと思って今こっち来てるんだ。やっぱ遠距離って寂しいじゃない? ふふ。そんなに驚いちゃって。内緒で来た甲斐があるわ。それで、今どこにいるの? え? 都合が悪い? どうして?」
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