短編小説・ショートショート【極楽堂】

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暗中作法

 つくられた闇の中、大勢の人々が息を潜めて座っている。
 こんなにたくさんの人がいるのに、ほとんど話し声が聞こえないというのは、かなり非日常的な感覚がする。マサヒコはそういうシチュエーションが好きだった。
 だが、席についてから一五分後、その快適な気分は損なわれた。

 最低限のマナーとして映画館で私語は慎むべきだ。
 マサヒコは常々そう思っていた。
 しかしその最低限のマナーすら守れない人は結構いる。それは子どもに限ったことではない。いい大人がひそひそ話をしたり、平気で携帯で話をしたりする。そういう光景を目の当たりにすると、怒りを通り越して呆れてしまった。
 よくそれで「最近の子どもは……」とか言えるものだ。
 平気で携帯で話を始めるおばさんを横目にマサヒコは軽蔑の視線をなげかけたこともあった。
 その日も、はじめの頃こそ、皆黙って鑑賞していたが、中盤くらいになると、微かに話し声が聞こえた。極力遠慮して小声で話しているのだろうが、周りが静寂に包まれると、かなり耳障りなものだ。一回ならまだしも、その声は断続的に聞こえてきた。
 あまり魅力的なストーリーでもなかったので、マサヒコは映画よりもそっちの方が気になって仕方なかった。
 一体どんなやつが話をしているのか。
 中年のおばさんだろうか。
 脂ぎったおじさんだろうか。
 チャラチャラした若者だろうか。
 いろんな想像が頭をめぐる。
 何回か耳にするうちに、どうやら男であることがわかった。
 どちらかというと若い。
「うん」
「そうそう」
「いや」
 などと相槌をうっているようだ。
 ということは、二人で会話しているのだろうか。
 マサヒコは眉をひそめながら後ろを振り返った。
 声は左後方から聞こえる。
 当然、劇場内は暗いので、顔まではわからない。
 抗議の意を含め、そちらに顔を向ける。
 するとそれに気づいたのか、すぐに話し声は消えた。
 ホッとしてまた前に視線を戻す。
 スクリーンでは若い女性が苦しみながら、息絶えていく様子が映されている。
 だが、なぜそういうことになったのかマサヒコには分からなかった。それもこれも後ろのやつのせいだ。大きく息を吐き、マサヒコはクッションのきいたイスに深く座りなおした。

 一〇分もすると、再び声が聞こえた。
 どうやらさっきと同じ人物らしい。
 もういい加減にしてくれ。
 そう思ってマサヒコは再度振り返った。
 やはりさっきと同じ人物が話しているようだ。
「違う、違うよ。うん、そうそう」
 などと声が聞こえる。
 だが、次の瞬間、疑問とわずかな恐怖がマサヒコの身体に入り込んだ。
 男は一人しかいなかった。
 しかも彼は壁側を向いて話している。
 誰もいない方に向かって。
 マサヒコはすぐに向き直った。
 テレビに対して思わず「まさか」とか「またまた」とか話しかけてしまう人は、彼の知り合いの人にも何人かいる。だが、あの男は映画を見てすらもいなかった。しかも今の場面は、「違う、違うよ」などという言葉があうシーンではなかった。どう考えてもシチュエーション的におかしい。
 だとすると彼は何に向かって話していたのか。
 恐ろしい仮定が頭に浮かび、すぐにそれを追い出した。
 まさか。
 そんなことをグルグルと考えていると、やがてスクリーンにはたくさんの名前が下から上へと流れ始めた。一人、二人と席を立ち、その場を後にする。
 恐る恐る振り返ってみると、壁際の男はもういなかった。
 今出て行った人の中にいたに違いない。
 だが、どれがその男なのかはわからなかった。
 劇場が光を取り戻す。
 変なものを見たなと思いながら、マサヒコも席を立った。

 首をポキポキと鳴らしながらロビーの方まで歩いていくと、端の方で一人でボソボソとつぶやいている男がいた。
 髪は耳にかかるくらいの長さで、色あせた赤いシャツに、色がほとんど落ちたジーンズをはいている。その視線はどこかうつろな感じがする。
 よく耳を澄ましてみると、どうもさっきの男のようだった。
 恐らくは間違いない。
 彼は映画とは関係なく、常にああして話をしているのだ。
 我々が見えない何かと。
 空恐ろしくなり、マサヒコはすぐにその場を立ち去りたくなった。
 だが、あの男が立っている先に出口があるのだ。近くを通らなければ離れることもできない。
 マサヒコは舌打ちし、足早に出口に向かって歩き始めた。
 途中、好奇心に負けて男の方を見ると、彼の耳にイヤフォンが刺さっているのが見えた。
 ハンズフリー用のあのイヤフォンをつけて、携帯で話していたのだ。
 そう思うと、今まで恐れていた自分がばかばかしく思えた。
 なんてことはない、小声で話をしていただけなのだ。
 相手は幽霊でも、何光年も離れた宇宙人でもない。
 人騒がせな、と心の中で文句をいい、通り過ぎようとした瞬間、

 シャカシャカシャカ、

 と、イヤフォンから音楽がもれて聞こえてきた。
 一気に血の気が引く。
 驚いて振り返ると、男はこっちをみてニヤリと笑った。
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