短編小説・ショートショート【極楽堂】

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電話入門

「よろしくお願いします」
 そう言って若い男が軽く頭を下げた。髪の毛はずいぶん前に脱色したのか、根元の方が黒く、お世辞にもきれいと言える色ではない。だぶだぶのTシャツに、だぶだぶのジーンズをはいている。椅子に座ってそれを観察していた中年の男は少し眉をひそめた。
「え〜と、タチバナくんだっけ?」
「ウッス」
「まぁ座ってよ」
 中年の男が、自分の前のスチール椅子を指差し、座るように促す。それに対し、また軽く頭を下げて、タチバナは腰掛けた。がたいがいいため、椅子がギシギシときしむ。
「どんな仕事なのかは聞いてる?」
「ええ、まあ。電話かけるだけって聞いたんすけど」
「確かにそうなんだけど」
「電話かけるくらいならラクショーっす」
 楽天的な言葉に中年の男はぼりぼりと頭をかいた。
「だといいんだけど」
「ウッス」
 机からA4サイズの紙の束を取り出し、タチバナに手渡す。
「これが名簿だから、それにかけてくわけ」
「ああ」
「とりあえずおれがやってみせるから、どんなものなのか見ててよ」
「ウッス」
 小さな咳払いをして、男が受話器をとる。それから、名簿にかいてある番号を押していく。
「あ、もしもし。佐々木さまのお宅でしょうか」
「ええ、そうですが」
「おめでとうございますっ」
「え?」
「この度、賞金一〇万円にご当選されました」
「ほ、ほんとですか?」
「つきましては詳しいご説明をさせていただきたいのですが」
「はいっ。ぜひお願いします」
「そうですね。ご自宅のお近くのショパンという喫茶店がございますよね」
「はい。あります。そこに行けばいいんですね?」
「ええ。これからで大丈夫でしょうか?」
「もちろんです。ちょうどお金に困ってたんで、今すぐにでもいただきたいです」
「かしこまりました。それでは、二時半に待ち合わせということで」
「はい。ありがとうございますっ」
「それでは」
 ゆっくりと息を吐きながら、男は受話器を置いた。その様子をタチバナは目を丸くして見ていた。
「ん? どうしたの?」
「今の人、一〇万円当たったんすか? うらやましい」
「そんなわけないじゃない。あれはただの呼び出す口実だよ」
「え? 嘘なんすか?」
「はっきり言えばそう」
「だますなんてひどいっすね」
 やれやれと男は肩をすくめる。
「でもあんなにスムーズに進むもんなんですか?」
「いや、ああいうケースはなかなかないよ」
「へえ。すごいっすね」
「慣れだよ、慣れ」
 久しぶりに確保できたので、思わず男の顔に笑みがこぼれる。内心「よしっ」と思ってもいた。
「あんなに上手く騙せないっすよ、おれは」
「でも、これを今から君にやってもらうんだけど」
「あ、そうなんすか」
「うん」
「わっかりました。がんばります」
 自分でひどいとか難しそうとか言っておきながら、あっさりと了承するので男は拍子抜けした。
「えっと、それで呼び出してからどうすんすか?」
「ああ。時間まで取り付けてくれたら、あとはそっちの担当の人に行かせるから」
「なるほど」
「場所と時間と名前を控えといてね」
「ウッス」
 タチバナは勇んで受話器を手にしたが、一〇分後には意気消沈していた。案の定とは思いつつも、男は少し哀れに思えた。
「最初はなかなかできないものだよ。そんなに気を落とさないで」
「ウッス。でも馬鹿とか言われるのは結構キますね」
「確かにね。辛かったらやめてもいいよ」
「いや。がんばります。電話かけるだけで時給一五〇〇円なんて他にないっすから」
「そう。じゃがんばって」
 そうは言ったもののタチバナは受話器を手にするのをなかなか躊躇っている様子だった。男は何も言わずにそれを見守る。それはまるで親鳥が雛を見守るような視線だった。

「はい。ありがとうございますっ」
「それでは」
 今までの満面の笑みを引っ込め、男は受話器を置く。
「なんに当選したかも分からずにほいほいついていくかっての」
 吐き捨てるように男は言った。
「今の何の電話?」
「たぶんなんかの勧誘」
「すっごい喜んでたけど」
「全部演技」
「すげ。マジで?」
「あっちを逆に騙してやろうと思ってさ」
「カッコイー。おれをぜひ弟子にしてくれ」
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