短編小説・ショートショート【極楽堂】

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あなたのために

 送信履歴から、見慣れた番号を呼び出す。
 今まで数え切れないほど行ってきた動作だが、今日はいつものようにスムーズにはいかなかい。
 ディスプレイに彼女の名前と番号を表示させたまま、指は活動を停止する。
 最初は他愛もない噂だと、意にも介さなかった。けれども時間が経つにつれ、疑いの芽はどんどんと育っていき、今では頭の中をすっぽりと覆ってしまっている。
 彼女が浮気しているらしい。
 男と腕を組んでいるところを見たという友達がいたのだ。見間違いかもしれないけど、と彼は最初に断りをいれたが、その言葉が信憑性を増していた。
 電話をして確かめたい
 本当に信頼しているのならば、そんな行為は無用なのかもしれない。あくまでも相手を信じきって、そんな噂は聞き流す。そういう人間だったならなとつくづく思う。
 いざ電話をかけようと意気込んではみたものの、なかなか電波を飛ばせないままでいた。
 やがて画面が暗転する。
 まるで意気地がないぼくに愛想を尽かしているみたいだ。
 意味もなく部屋の中を歩き回り、何度かため息をつく。我ながら情けない。
 部屋を二回転半したところで、意を決する。
 さっきの醜態を払拭するべく、再びキーを押す。画面に彼女の番号が再び浮かび上がる。
 そして一息つき、通話ボタンを押す。
 呼び出し音と共に、鼓動も胸の中で鳴り響く。
 胸の中の音はどんどんどんどん大きさを増していく。彼女が出る前に破裂してしまうのではないかと思えるほど。
 けれども、その膨張も四コールで終わる。
「もしもし?」
 いつもの声が受話器から聞こえてくる。少し高めのやわらかい声。その四文字を聞いただけで、ぼくの心は少し和らぐ。
「あ、もしもし。ぼくだけど」
「ああ、ミツヒロ」
「今、大丈夫?」
 これでもし彼女がダメだといえば、ぼくの疑いは強まること間違いない。
「うん。どうしたの、こんな遅くに? 珍しいね」
 とりあえずは胸をなでおろす。
「いや、特に用はないんだけど。なんか声が聞きたくなって」
「えー、ナニ言ってんの。ハズカシ」
「イヤ?」
「ううん。イヤじゃないけど」
「よかった」
 いつもと変わらない彼女の様子に、頭を覆っていた疑惑は少しずつ晴れていく。
「今、何してたの?」
「うーん? お風呂」
「え? じゃわざわざ上がってきたの?」
「ううん。お風呂に携帯置いてたの」
「そうなんだ」
 確かに彼女の声が少し、反響しているように思えた。
「いつもお風呂まで持っていくの?」
「うん。ミツヒロからかかってくるかもしれないじゃない?」
 うれしさのあまり身体が熱を帯びる。
 さっきまで疑っていた自分を恥じる。
 こんなイイ子が浮気なんてするはずがない。
「そっか。うれしいよ」
「わたしの方こそ、声聞けてうれしい」
 思わず顔がニヤける。
 けれどもそれを邪魔するように、玄関のインターフォンが鳴る。
 こんな時間に誰だ?
「あ、ちょっと誰かきたみたい。またあとで……でも、もう遅いか。また明日かけるね」
「はあい。じゃわたしもそろそろあがろっかな」
 彼女がそう言うと、ざざざという水が流れる音がした。そして、ドンというタイルを踏む音。
「じゃまた」
 そして通話を止め、玄関に向かった。

「なんか言ってなかった?」
「え? ああ、ちょっと歌ってたの」
「そう?」
「うん」
 そう言ってバスタオルを巻いた若い女は、ベッドにいる男の隣に腰掛けた。
 さりげなく、男から見えない場所に携帯を置く。
 そして安心しきった笑みを浮かべ、男の肩に頭を乗せた。
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