短編小説・ショートショート【極楽堂】

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最悪の日

 史上最大のピンチである。
 初めて来た駅はあまりにも広く、俺を迷わせるには十分な大きさであった。行けども行けども目的のホームには辿り着かない。すがる思いで、案内板を見てみるが、デザインを重視しているせいか、非常に分かりづらく、半泣き状態でもう三〇分もさまよっている。このまま駅の住人になってしまうのだろうか、などとあまりにもひどいイメージが頭をよぎる。
 そんな俺を追撃するかのように現れたもの、その名も尿意。
 この不可避な生理現象がますます俺を追い詰めていた。
 普通、駅のトイレなど分かりやすいところにありそうなものだが、さまよっている間、一度も見かけなかった。まさかトイレのない駅というものが、この世に存在するというのか。
 はちきれんばかりの膀胱をなだめながら、サーチ能力を十二分に発揮し、この迷宮からの出口、もしくは安息の地、トイレを探す。背ににじむ脂汗が今の俺のコンディションを物語っている。どこかでこっそりと済ましてしまおうかと思うものの、人通りは決して少なくなく、誰かに目撃されることは必至である。迂闊に行動すると警察のお世話になるかもしれない。立ちションという前科は、人として避けなければならない。
 ん? 警察?
 なんでそのことを思いつかなかったのだろう。そうだ交番にいき、お巡りさんに聞けばいいのだ。この際、出口よりもまずトイレの方が先決である。早くしないと液体とともに今まで築き上げたものが流れ出てしまう。急がねば。
 立ち止まり全方向を見回す。
 あるじゃないか、交番が! 明るくともったランプが非常に心強い。
 体内にショックを与えないように、ゆっくりと、だが着実に歩みを進める。
 と、そのとき軽い衝撃が身体を襲う。思わず「おふっ」という息が漏れる。何かがぶつかったようだ。赤いランプのみを見て歩いていたため、周りのことまで気が回らなかった。首を曲げ、ぶつかった正体を見極めると、小さなばあさんだった。俺に当たった拍子に、地面に倒れてしまっている。自分の安全確保のためなら、この程度の犠牲は仕方ないとも思ったが、さすがに良心が痛み、抱き起こす。さすがに身体が小さいので、軽々起こすことができる。ばあさんは俺に身体をあずけ、抱き合うような格好になった。さすがにこのシチュエーションで興奮するということはない。いくら年上が好きといっても上には限度がある。ストライクゾーンが広いと言っても敬遠の球までは無理だ。
「大丈夫ですか?」
 と、声をかけ、ばあさんを一人で立たせる。すいませんすいませんと言って、ばあさんはペコペコ頭を下げた。俺はいいんですよと軽く頭を下げ、先を急ぐことにした。が、ばあさんに呼び止められた。
「都会にきて親切にしてもらったのは初めてです。何かお礼でも」
 そう言ってばあさんは俺の顔をじっと見た。無下には断り難い雰囲気である。その熱い視線は少女のそれのようであった。しばし逡巡したが、答えは一つしかない。
「いえ、結構です。このくらい当然のことですよ」
 ひきつる笑顔で申し出を断る。こんなにいいことをしているのに、尿意と言う悪魔はその攻撃を控えようとはしなかった。むしろ容赦なく襲ってきているように思える。
 残念そうな表情を浮かべるばあさんを背に、急いで交番へ。
 身体どうこうのことは優先順位から下げられ、足は小走りになっている。人間としての尊厳だけは失するわけにはいかない。強い意志で身体を保持しつつ、交番に辿り着く。
「あの、すみません」
 中から初老のお巡りさんが出てくる。その表情は穏やかで、温和な感じがした。
「どうさないました? 顔色が悪いようですが」
「あのですね」
「まぁ、中に入ってください。冷たい麦茶でもお出ししましょう」
 そう言って彼は俺を中に招きいれようとした。けれどもこの状態で冷たい麦茶など飲んだら、それこそ自殺行為である。
「あのご好意はありがたいでんすが、急いでいるので」
 遠慮がちに断ると、彼の表情が一変した。今までの温和な表情とは程遠い、無表情で冷酷な顔が現れた。豹変とはこういうことを言うのだなと、背筋がぞくりとした。
「そうですか。こんなじじいの茶は飲めないと、そういうわけですね」
 声のトーンまで低くなっている。そんな声まで変わってる、という一昔前のCMのセリフを思い出した。
「いや、決してそういうわけではないんですが」
「どうせわたしなんか、誰からも必要とされてないんですよ。家に帰っても家族は態度が冷たいし、だいたいこの歳まで交番にいるんですよ。無能の極みですな。はっはっは」
 笑ってはいるがその表情は凍りついたままである。これはやばいと直感した。このままいたずらに時を過ごすのも無駄だと思い、とりあえず言うことを聞いてみることにする。
「あ、少しだけなら時間あるので、お邪魔しようかな」
 そう言うと、彼の顔はまた温和に戻った。まるで大魔人のようである。
「そうですか、では中へどうぞ」
 勧められるままに麦茶を飲んでいると、事態はますます深刻になっていった。まず、じいさんの話がなかなか終わりそうにないということである。よほどストレスがたまっていたのか、彼はここぞとばかりにしゃべり続けた。帰ろうとする意志をちょっとでも見せると、例のごとく表情が一変し、俺をその場にくくりつけた。そして、さらに悪いことに尿意が自分の親分を連れてきたのだ。その名も便意。こいつの攻撃は半端ではなく、身体中から汗がにじみ出ていた。室内はクーラーがガンガンに効いているのにも関わらず、とどまることなく汗は吹き出た。何度もやつらの攻撃に負けそうになったが、だいの大人としてやつらに屈するわけにはいかなかった。小学校のとき、教室で大便をもらした子を笑ったのを思い出し、酷く後悔した。あの子にはまだこいつらと戦うだけの力が備わってなかったのだ。残酷なことをしてしまった。
「……というわけなんです。おや、顔色が優れませんね。お茶をもう一杯持ってきましょうか」
「いえいえいえ、本当に結構ですので」
「そうですか」
「あ、あのトイレ」
「あー、トイレでしたら交番にもありますよ」
 今まで苦しめてきたじいさんの顔が仏に見えた。
「お借りしてよろしいでしょうか」
「どうぞどうぞ」
 出来るだけ冷静を装い、トイレまで歩いていく。これさえ済んだら、じいさんの話も気が済むまで聞いてやろう。頭の中では警戒音が鳴りっぱなしである。ダムはもうこれ以上、襲ってくるものを抑え切れそうになかった。
 トイレは洋式で別段変わったところもない。どうやらトラップはなさそうだ。急いでズボンを下ろし、便座に座り込む。その刹那、体内に巣食った悪霊どもが、怒涛のようにあふれ出てきた。今まで聞いたことのないような、形容しがたい音がしたが、この場所にいる幸せを満喫している俺には、そんなことはどうでもよかった。幸せというのは身近なところにあると、よく言われるが、まさにその通りだなと実感した。一瞬で悪魔祓いは終わり、爽快感が全身を駆け巡った。聖なる水で悪魔どもを流し、手を清め、トイレを後にした。
 そこで違和感に気づいたのだ。
 やはり、交番に来たのは正解だった。
「顔色もよくなったようですね。早く言ってくれればよかったのに」
「ええ、まあ」
「どうしました、まだ何か?」
「……財布、すられたみたいなんです」
「それは大変ですね。何か思い当たる節は?」
「あります。間違いないと思います」
 そう言って俺は、ここに来るまでの経緯をじいさんに話し始めた。
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