短編小説・ショートショート【極楽堂】
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あんばらんすプロポーズ
「やっぱ無理だって。やめとけよ」シートを倒しながらミチタカは言った。
相手は、評判の美人である。
付き合っている人がいないわけがない。
「うるさい。お前はだまっとれ」
語気を荒げて、タカヨシはミチタカの方をにらんだ。その目は真剣そのものである。
ミチタカはやれやれといった感じで、シートに深く沈んでいった。
そろそろ仕事が終わって、出てくるはずである。
バックミラーをちらちら見ながら、タカヨシは呼吸を整えようとした。けれども、どうしても鼻息が荒くなってしまう。目をしぱしぱさせながら、落ち着くように自分に言い聞かせる。
「そろそろじゃないの?」
読みかけの文庫本を開きながら、ミチタカは言った。
「う、うむ」
緊張の色がありありと見える。
今度はやたらと咳払いをしだす。ついには掌に「人」という字を書き始めた。これで少しは緊張が和らぐだろうか。
そのとき、タカヨシの瞳が見開いたまま止まった。
彼女を発見したのだ。
笑顔で同僚に手を振り、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
「やばい。吐き気が……」
手で口を覆う光景を、ミチタカは眉をひそめて横目に見ていた。
「やっぱ、やめたらどうだ?」
心配そうに尋ねる。
タカヨシは首をぶるんぶるんと振り、ドアのノブに手をかけた。
「いってくる」
そう言うと、タカヨシは慎重に車のドアを開けた。
彼女との距離は、もう三メートルしかない。
大丈夫だ。うまくいくはずだ。
自分に言い聞かせ、タカヨシは笑顔を浮かべた。
しかし、それは緊張のせいで、ひきつった笑顔にしかならなかった。
その姿に彼女は気付き、あっと小さく驚きの声をもらした。
驚きの表情はすぐに、笑顔に変わった。
「タカヨシくんじゃない。どうしたの?」
女神のようなその笑顔は、タカヨシの心臓を高鳴らせた。
「あ、あのさ。ちょっと話があるんだけど」
緊張のつっかえを押し出すようにして出した声は、少し震えていた。
「なにかな?」
彼女は小首をかしげた。
その素振りだけで、タカヨシは幸せを実感した。
天にも昇る思いとはこのことか。
「あ、あのさ。つ、付き合ってる人とかいるの?」
突然の質問に、彼女はちょっと困ったような顔をした。
タカヨシはそんな彼女の表情をちらちらとしか窺うことが出来ない。
まともに目を合わせることは、到底不可能に思えた。
少し考えた後、彼女は意を決したように答えた。
「……うん。いるよ」
その言葉は一気に、彼を天から引きずり下ろした。
冷や汗が身体からにじみ出る。
「そ、そうだよな。ミチルかわいいもんな。は、ははは」
笑おうと努力するが、ただの「は」の連続音にしかならない。
「ごめんね」
そんな彼の表情を察して、ミチルは言った。
「なんだよ。謝るなよ。別にただ聞いただけだよ」
ほとんど涙声になっているが、必死にこらえた。
ここで泣くわけにはいかない。
ミチルは、申し訳なさそうな表情のまま、タカヨシの方をじっと見ていたが、だんだんいたたまれなくなり、「じゃあね」と言ってその場を立ち去った。
タカヨシはしばらくその場を動けず、声にはださずに泣いていた。
輝く夕日が彼をやさしく包む。
しかし、彼の目には、その奇麗な夕日は目に入らなかった。
後から後へと、頬を伝わる温かい涙。
やがて、ひっくひっくとしゃっくりを始めた。
しばらくすると、頭の上にポンと何かが乗せられた。
「だから無理だって言っただろ」
頭の上に手を乗せたままミチタカが声をかける。
「うるさい」
タカヨシはその手を乱暴に払った。
「おー、こわ」
茶化すように、大げさな素振りでミチタカはその手を退けた。
相変わらず泣き続けるタカヨシを後にして、ミチタカは車に乗り込んだ。
依然動こうとしないタカヨシに、しょうがなく窓を開けて呼びかける。
「ほら、早く帰るぞ。お母さんも心配してるから」
お母さんという言葉に反応したのか、タカヨシは、とぼとぼと車に向かって歩き始めた。
「ったく。やっぱ似るもんだなぁ。初恋の人が保母さんとは」
ミチタカは窓を閉めながら、呆れたように呟いた。
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