短編小説・ショートショート【極楽堂】

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鳥になりたい

 空を飛びたい。
 誰でも一度はこんなことを考えたことがあるのではないだろうか。
 子どもの頃、自由に空を飛びまわる鳥たちがうらやましくて、将来の夢はパイロットになりたいです、とよく言っていたものだ。しかし、人生も下り坂に入った今、くたびれたスーツをひっかけ、居酒屋で酔いつぶれている自分がここにいる。年輪を重ねるにつれ、夢は色あせていき、いつも無難な道を選んで生きてきた僕は、こうして飲むことくらいしか楽しみがなかった。
 一体どうしてこうなってしまったのだろうか。
 出る溜め息とともに、グラスに注がれたウィスキーを一気に飲み干し、僕は店を後にした。
 前後不覚とまではいかないが、その時の僕は随分酔っていたと思う。 
 その日、偶然しばらく会っていなかった友達と出会い、昔話に花を咲かせていた。昔話がつきてくると、自然と話題は今のことになった。そこで、彼が今、大型ジェット機のパイロットになっていることを聞いたのだ。すっかり忘れかけていた夢は一気に色を取り戻し、それに比べて自分はという後悔の念が、飲むペースを早めた。大変だけど楽しいよといった彼の横顔を見ると、僕は自分の情けなさで涙がでそうだった。 
喧騒の街は、人がたくさんいるにもかかわらず、孤独を感じさせる。
 やりきれない思いのまま、僕は家路についた。

 翌朝、二日酔いでガンガンする頭を無理やり引き起こし、洗面台に向かった。
 髪はぼさぼさで、顔は少しむくんでいた。
「ちょっと飲みすぎたかなぁ」
 蛇口から勢いよく水を出し、ぼさっとした顔に二度三度ぴしゃぴしゃと冷水をぶつける。
 タオルで冷たい水滴をふき取り、もう一度鏡を見る。
「あれ、なんか……」
 いつもとかわりない冴えない顔だが、今日は何か違和感がある。
 何かが違う。
 じっくりと鏡を見つめる。そこに映っているのは、五〇を越えたぱっとしないおじさんの顔だった。
「背、伸びたか?」
 五〇歳を越えて、背が伸びることなんかないだろう。頭では分かっていても、それくらいしか理由が思いつかない。
 違和感の正体。それは顔の映っている位置であった。
 いつもより五,六センチ上にあるのだ。
 何気なく、足元を見る。
「え? なんだこりゃ」
 足が浮いていた。
 床を踏んでいる感覚はあるのだが、実際には床に足はついていなかったのだ。ほんのわずかだが、確かに浮いている。
「ど、どういうことだ?」
 足を前に踏み出してみる。
 感覚はある。けれどもやはり足は床には届いていなかった。
 まだ酔っているのだろうかと、洗面台に頭をつっこみ、思いっきり水をかぶる。
 それで急いでまた自分の足元を見てみる。
 浮いている。
 その高さわずか五センチほどだが確かに浮いているのだ。
「う、うわあああああ」
 思わず口から驚きの叫びが漏れる。
「朝から何よ、全く」
 洗面所のドアを開けながら、寝ぼけ眼の娘が入ってきた。
「陽子、よく見てくれ。と、父さん浮いてないか?」
 息も絶え絶えに尋ねる。娘は、はぁ?といった感じで僕の顔に一瞥をくれた。
「ダイジョブ? ここ」
 人差し指でこめかみの辺り指しながら、呆れた口調で答える娘。
「いいか。よく見てくれ。父さん、浮いてないか?」
 本当におかしくなったのではないか、といった表情を浮かべながらも、陽子は僕の足元を見た。
「な、なにこれ? 父さん何やってんの?」
 びっくりした表情で目を見開いている。やはり本当に浮いているのだ。幻覚ではなさそうだ。
「僕にも分からないんだよ。どうしよう、これ?」
 困惑の表情を顔いっぱいに広げ、娘に助けを求める。小学校高学年の娘の顔がいつもよりも低い位置に見えた。
「どうしようって言ったって、そんなの分かるわけないでしょ」
 興奮しながら、娘は僕の顔と足元を交互に凝視した。
「お、おかあさぁん」
 扉を思いっきり開けて、娘は洗面所を飛び出していった。
 どうすればいいんだろうか。
 力を入れて、下に降りようとするが、一向に床につく気配はない。
 いや、それどころか、さっきより浮いているのでは……!
バタンッッ。
 思いっきりドアが開く。
 妻と娘が揃って奇異の目を僕に向けていた。
「あ、あなた。どうしちゃったの?」
 今にも失神しそうな感じに妻が言った。
「僕にもわかんないんだけど。どうやら、さっきよりも浮いてるみたいなんだ」
 妻と娘は顔を見合わせた。
 本当に困った。
 大きく溜め息をつく。
 そのとき急に娘が駆け寄ってきて、
「重くなれば落ちるんじゃない?」
 といって、僕に飛びついた。
 しかし全くびくともしない。娘の身体はもう思っていたよりも全然重く、僕自身は支えきれなかったのだが、倒れてしまってもやはり宙に浮いてしまっているのだ。娘は空飛ぶじゅうたんに乗っているような形になった。
「ちょっとがまんしてね」
 そういってお腹の上でジャンプをし始めた。けれども苦しいだけで、一向に落ちる気配はない。
「も、もういい。苦しい……」
 そう言うと、陽子は僕から飛び降りた。
「どうなってんのこれ?」
 マジシャンがするように、僕と床の間で手を左右に動かしながら陽子が言った。
「こ、こういう場合は、救急車かしら? 警察かしら?」
 妻の美代子は慌てて携帯を取り出した。
「どっちでもいいから、何とかしてくれ」
 ほとんど涙声で僕は叫んだ。
 そして、絶望感をさらに加速させるように、僕はどんどん空に浮いていった。
 警察が来る頃にはすっかり天井に頭がついてしまっていた。
 部屋に入ってくるなり、二人の警官は口をあんぐりあけながら、僕を見上げている。
「ど、どうすればいいでしょう」
 若い方の警官が、消え入りそうな声で、先輩らしき男に尋ねた。
 先輩はうーむとうなり、腕組みをしたまま動かない。
 美代子と陽子は心配そうに僕の方を見上げている。
「ちょ、ちょっとやばいかも」
 このままいくと天井につぶされてしまうような気がし、ぞっとした。これはちょっとどころではなく、かなりやばそうだ。
「と、とりあえず、外に出てはどうでしょう」
 若い方が遠慮がちに提案した。
 どうやらそれに従うしかなそうだった。
 天井に背中をぴったりつけ、仰向け、いやうつぶせか、とにかく視線を下に向けたまま窓の方まで這っていく。
洗面所の窓から何とかでられそうだった。
「ここ四階ですよね。万が一落ちるってこと、ないですよね」
 遠慮がちに恐ろしいことをいう若い警官に、みんなの視線が一斉にそそがれた。
「ま、まさかね。そんな。ははは」
 無理やりの作り笑いを浮かべ、先輩の方が答える。
 我が一家は誰も笑うことができなかった。
「どっちにしろこのままでも、挟まれて死んでしまいそうだし、表にでるしかないようです」
 窓の取っ手に手をかけ、思いっきり押す。
 すると力を入れ過ぎたのか、そのまま空に飛び出してしまった。
 あーっと言う声が後ろで聞こえた。
 妻と娘と警官二人は窓から身を乗り出すようにして、こっちを見ている。
 僕はというと、やはり浮いているのだ。
 しかも外に出た途端、上昇スピードが上がりだしたようだ。
 みるみるうちに四人のぽかんと口を開けた顔が遠ざかっていく。
 やがて、飛行機から見下ろすような景色になっていった。
 一体どこまでいくんだろう。
 上昇は全然おさまりそうになかった。
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