短編小説・ショートショート【極楽堂】
home > novel > 001-010 > 暗所恐怖症
暗所恐怖症
黒崎遥子は夜が嫌いだった。正確に言うと闇が嫌いなのだ。
漆黒の闇、それは彼女の気を狂わせるほどの恐怖であった。夜寝るときであってもテレビをつけっぱなしにしていたり、小さな灯かりを点けていないと落ち着いて眠ることができなかった。
彼女は今高校三年だったが、部活には属していなかった。引退したというわけではなく、もとから入部していなかった。部活に入ってしまえば、当然夜遅くなってしまう。それは彼女にとっては相当の恐怖なのだ。
うだるような暑さもだんだん引きはじめていたが、まだまだ日は長いある日、遥子は進路の用事でずいぶん遅くまで、学校に残らなければならなかった。
辺りはすっかり夜の帳を見せ始め、遥子の不安は増すばかりだった。
それでも幼馴染の男の子、早坂未散(ミチル)が一緒に帰ってくれるということなので、何とか平常を保ち、長すぎる時間を潰していた。
学校の二階の窓から、明るくなり始めた星を見て、早く帰りたいと遥子は強く思っていた。
「あ、遥子。まだいたの? 珍しいね」
聞きなれた声が、遥子を振り返らせる。
同級生の美智子だった。遥子は美智子のことが苦手だった。美智子は未散のことが好きだったのだ。だから幼馴染とはいえ、よく一緒に帰っている遥子に何かと絡んでくることがあったのだ。
「未散君のこと待ってるの?」
少し険のある疑問符が遥子にささる。
遥子は何もいうことができず、ただわずかに首を縦に振った。
それを見た美智子の顔に、少し笑顔が広がる。あまり感じのいい笑顔ではない。
「未散君ならもう帰ったよ。私あなたもう帰っちゃたのかと思って、そう言ったの」
さぁっと遥子の血の気が引いていく。
「ごめんね」
口の端に笑みを浮かべたまま、遥子の右肩にそっと手を乗せると、美智子はそのまま向こうに消えていった。
半ばパニックに陥りそうな状態で、遥子は立ち尽くしていた。
この暗闇の中を一人で帰らなければならないの?
不安が遥子の心の中に膨れ上がっていく。
しばらくその場に立っていたのだが、そのままではどうしようもないと思い、ゆっくりと歩みだす。
下駄箱の辺りまで来たところで、ポケットにある携帯のことを思い出す。
急いでそれを取り出すと、メモリの中から未散の名前を探し、かけてみる。
四回のコールの後、トゥルルルという機械音が止む。
「あ、未散?」
焦燥感が遥子の声を早く押し出す。
でもそこから聞こえてきたのは、待ち望んだ未散の声ではなく、現在電話にでることができませんという無機質な女性の声だった。期待が一気に絶望へと変わる。
やはり一人で帰らなければならないのか?
どうしようもない不安と絶望が遥子の身体を支配する。
目をつぶり、天を仰ぐ。
呼吸が荒くなる。
大きく深呼吸をして、自分を落ち着かせようとするが、収まったのは激しい呼吸だけで、爆発するような心臓の高まりは、抑えることができなかった。
家まではどんなに急いで歩いたとしても、ゆうに二〇分はかかる。
「どうしよう」
小さく呟き、遥子はゆっくりと歩き出した。
通学路には電灯が少ない。
田舎だからということもあるが、特に遥子の住んでいる地域にはあまり人がいないのだ。
だから林に囲まれた数十メートルが、真っ暗になってしまうこともある。暗闇の恐怖は容赦なく遥子に襲い掛かり、彼女の足を速めた。
できるだけ周りを見ないようにし、前方の道だけを見ながら一心に歩いていく。
バサバサバサッ。
突然大きな物音がし、思わず身体がビクッとなる。
一瞬心臓が止まってしまったように思えた。
上を見上げると、蝙蝠らしきものが遥子の目にとまった。
「なんだ……」
目をつぶり大きくため息を漏らす。が、再び呼吸が激しくなる。思わず胸を抑える。
大丈夫と頭では言い聞かせているのだが、身体は言うことを聞いてくれない。
とにかく早く帰らなきゃ。
遥子は再び歩き出した。
一〇分くらい歩いただろうか、気になる音が遥子の耳に聞こえてくる。
足音だ。
五分くらい前から、ずっと聞こえてきているのだ。
きっと同じ方向に帰る人なんだと言い聞かせてみても、不安は消えることはない。
しかもだんだん近づいている感じがするのだ。
遥子はさらに足を速めたが、後ろの足跡もそれにつれて、早まる。
二人の間隔はどんどん狭まっていく。
動悸が激しくなるが、意を決して立ち止まる。
もし同じ方向に帰る人なら、きっと自分を追い越していくはずだと思ったのだ。
しばらく待ってみる。
その間、遥子の心臓は身体の中で暴れまわって、口から飛び出してきそうなほどだった。
しかし、足音はしない。
数分待っていても、一向に聞こえてはこない。
気のせいだったのかと思い直し、再び歩き始める。
しばらく立つと再び、足音が聞こえてくる。
やはり、ついてきているのだ。
恐怖で頭がおかしくなりそうになる。
遥子は走り出した。
もう歩いてはいられなかった。
だが、足音も共に歩みを早め、確実に遥子に迫ってくる。
「何なの?」
走りながら、絶望にも似た声が遥子からこぼれ落ちる。
走ってもまだ三分はかかるだろう。
どこか民家に逃げようとしても、しばらくこの辺には民家などなかった。
迫りくる足音。
逃げようとする足音。
交互に暗闇に響く。
すると、突然その足音が消える。
足を止めたのではない、止められたのだ。
遥子は屈強な男の腕に取り押さえられた。
いくら逃れようとしても無駄な抵抗だった。
男の荒い息が遥子の頬に降りかかる。
そこで遥子の記憶は途切れた。
※
「ったく、最悪だな」
未散は学校で美智子に会い、彼女が遥子に嘘をついて、家に帰らせたことを知った。
遥子が闇を非常に嫌っていることを未散も知っていたので、とても不安になっていた。
彼女が学校を出てから、一〇分くらい遅れ、未散は走って彼女の跡を追った。
道は本当に真っ暗なところがあり、怖いところがさほど苦手ではない未散でも、それなりの恐怖を覚えた。
こんなところを遥子が一人で帰ったら……。
不安は一層連なっていく。
無事に家までついていれば問題ないのだが、そう考えながら息を切らして未散は走った。
ふと、前に人影が見えた。
一人は倒れこんでいる。
未散の目が見開かれる。
「遥子……?」
人影はゆっくり未散の方を向く。
「未散? 何だ、まだ学校にいたんだ」
その人影は、まぎれもなく遥子だった。
そして、倒れているのは。
「それは、誰?」
未散はゆっくりと倒れている人物を指差す。
虚ろな表情を浮かべたまま、その指先に目を向ける遥子。
「わかんない」
ぼそりと呟くその声に、生気は感じられない。
そしてまた、倒れている男にも生気が感じられなかった。
「それ、死んでるの?」
しばらくの沈黙の後、未散が尋ねる。
遥子は何の反応も示さない。
しかし、消え入りそうな声で、誰に言うでもなくぼそりと呟いた。
「私、暗いとこ嫌いなの。誰かを殺してしまいそうな気がして」
<< 001-010