短編小説・ショートショート【極楽堂】
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密室の浴室
ほんとやってらんないな。濡れたシャツが肌にまとわりついて気持ち悪い。
短く溜め息をつき、それを脱ごうとするが、べたついてなかなか脱げない。
苛立ちが募る。
何とかその厄介者をひっぺがし、力なく脱ぎ捨てると、一息つくことができた。
浴室のドアをあける。
風呂特有の匂いが、鼻腔の中にゆっくりと入ってくる。
シャワーのつまみをひねる。
身体全体を覚ますような冷水が、しぶきを当てて突き当たってくる。その冷たさを我慢していると、だんだんと温かくなってくる。柔らかなお湯は心を落ち着かせる。さっきまでのいらつきもお湯と一緒に流れ落ちていくようだ。
シャンプーを手にとり、ゆっくりと髪になじませていく。
お湯がもったいないので、シャワーを止める。我ながら貧乏くさい。
髪を洗っているときというのは必ずといっていいほど背後が気になる。誰かが後ろにいるんじゃないかという疑いが、心に浮かんでは消えていく。普通に考えて後ろに誰かいることはありえないのだが、なぜだかいないとは言い切ることができない不思議な感覚がある。
普段よりも背後が無防備になるために、必要以上に背中に神経がいくから、そういう感じを得るのだと何かの本で読んだことがある。そんなことが分かっても、感じるものは感じるのだ。
嫌なことを思い出す。
友達から聞いた話だが、あるアパートの貯水庫に死体が投げ込まれたそうだ。動機は怨恨だったらしいのだが、殺した後、犯人の精神状態がまともではなくなり、そんな行動をとったそうだ。当然そこの住人はそんなことが起きているとは知るはずもなく、いつも通りの生活を送っていた。ある主婦が夕飯の支度をしようと水道の蛇口をひねったとたん真っ赤な水が吹き出したそうだ。彼女は小さな悲鳴をあげたが、きっと錆か何かだろうとその時は思った。気味悪く思いながらも、管理人に電話をかけ、調べてもらいその事件が明るみにでるようになった。事実をしった彼女は、しばらくの間、自分で水をだすことができなかったそうだ。
どうしてこんなことを今思い出すんだ。
自己嫌悪と小さな恐怖感が自分を責める。
髪を洗う手が止まる。
実際に自分の身に降りかかってくるわけはない。そう言い聞かせ、再びお湯をだそうとする。
ん?
つまみをひねることができない。力を入れてみるがびくともしない。こんなことは今までになかったのだが……。
もしかして触っている部分が違うのではと薄目を開けて見てみるが、間違いなくそれはいつもシャワーのお湯をだしているつまみだった。
どういうことだ。
途端に焦燥感が全身を支配する。しかし、泡を頭につけたままの姿では、あまり緊張感はでない。それでも焦ることは焦る。
泡で滑るから回らないのかもしれない。そう思い手についた泡を身体になすりつけ、再び挑んでみる。
まったく変化なし。
なんなんだくそっ。
怒りと焦りが交互に襲ってくる。
こんな格好のまま台所まで行かなければならないのか?
馬鹿馬鹿しさに自分自身を嘲笑してみる。
ほとんど諦め状態だったが、両手を使って思いっきりひねると、勢いよく水がふきだした。
「おおおっ。」
思わず喜びの声が漏れる。シャワーから水がでることに喜びを感じられるなんてことは、人生でもう無いのではないか。貴重な体験である。
安心感に身を委ね、頭の泡をどんどん洗い流す。
ふとした拍子に目をあけてみる。
赤。
さっきの話から錯覚が生まれたのだろうと、落ち着かせてみるが、自分の身体を滴る水は確かに赤かった。
「ひっ。」
思わず身をそらす。
なんだなんだなんだ。どういうことだ。
さっきまで消えかけていた恐怖感が何倍にもなって迫ってくる。
落ち着け。冷静になれ。
大きく深呼吸をし、シャワーからでている液体に目を向ける。
そこに色はない。
何の変哲も無い、透明なお湯が勢いよく飛び出しているだけだ。
記憶を手繰る。
確かにさっき、赤い水を見た。
それは間違いない。錯覚ではないはずだ。
待てよ。
そもそも何でシャワーを浴びることになったんだ。
どんどん記憶が頭の中で展開されていく。
そうか。そういうことか。
赤かったのは自分の頭か。
そうすれば当然流れてくる水も赤い。
「ははっ。」
笑いがこぼれる。
案外怖い話なんてものは、こういった勘違いから起こるものなのかもな。
おかしくてたまらない。
次第に笑い声も大きくなり、浴室中にこだましていった。
脱衣所には真っ赤に濡れた彼のシャツが落ちている。
そのシャツがなぜ赤かったのか、それは彼のみぞ知る。
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