短編小説・ショートショート【極楽堂】

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長く緩やかなときの中で

 電車はゆっくりとレールの上を進んでいた。
 もう何時間になるだろうか。外の景色を見ることにも飽き始めた僕は、何かこの退屈を潰すような手段がないか考えていた。
 「じゃあ、クリボー。」
 そんなときだった。
 通路を挟んで隣にいた男の声が耳に飛び込んできたのだ。最初に聞こえたのが、そのセリフだった。何を話しているのか、それだけではちょっと分からない。
 僕は、彼らの会話に耳をそばだててみることにした。
 「くりぼう? う〜ん。」
 男の言葉に対して、向かい側に座っている女性の方は何やら考え込んでいる。
 2人は20歳くらいで、その雰囲気から、何年かつきあっているだろう親しさのようなものが感じられた。相手に対する慣れのようなものだろうか。2人とも大きな鞄を持っているので、旅行なのだろう。
 「次って、『う』でしょ?」
 そうか。シリトリか。
 ようやくそのことに気付く。こういう暇つぶしのときの定番だ。
 「『う』? 何で『う』なんや。」
 彼の声に少し険が現れている。何か気に障ったようだ。
 今の会話を聞く限りでは、その理由は分かりかねた。
 「だって、くりぼうでしょ?」
 女性の方の声は、語気が少し弱まっている。
 「クリボーや。『う』じゃなくて伸ばすんや。だいたいカタカナ限定やっていうたやろ。」
 対照的に男の語気は強まる。よほど気に食わなかったらしい。そこにはもう怒りさえ感じられる。そんなに真剣になるほどの勝負なのだろうか。
 「そしたらなにかい。マリオはマリ男か。そんな馬鹿な話あるかい!」
 なかなか面白いことを言う。傍から聞いてて感心させられる。
 言葉から関西出身であることが分かる。こういうユニークさというのは関西人特有のものだろうか。生の関西弁というのは、初めて聞くがなかなか面白い。ある種の迫力のようなものが感じられる。
 男の言葉に対して、女は顔をしかめ、目をそらす。
 「そんなに怒らなくてもいいでしょ。ただのシリトリなんだから。すぐムキになって。」
 その言葉に男は大きく反応する。
 「ムキになるとかそういう問題やないんや。あのなぁ、物事にはルールというもんがあるやろ? それを守らなあかんちゅうことを言うとるんや。」
 少々強引な気もするが、その声の響きのせいか、なかなか説得力がある。
 それにしても、ただのシリトリでこんなにも真剣になれることに、ある種尊敬のようなものを抱いた。
 「だったら、そんなに強く言わなくたっていいでしょっ。普通に言えば分かるんだから。」
 一変して女の声は強まり、いくらか力を帯びている。
 彼女もだんだん腹が立ってきたのだろう。2人の雰囲気はだんだん険悪になり、僕の好奇心はどんどん膨らんでいった。
 互いに何か言いたそうな顔をして、睨みあっていたが、結局言葉を発することもなく、お互いに沈黙を守った。
 不自然にならない程度に、2人の様子を窺ってみる。
 彼女のほうが先に目をそらした。
 別に男の迫力に負けたというわけではなく、きっと馬鹿馬鹿しくなったのだろう。男の方も納得いかないような顔つきのまま窓に視線をそらした。
 30分くらい経っただろうか。
 相変わらず冷戦は続いたままで、2人の間には見えないカーテンが引かれていた。
 他人事ながら、この戦いの行方が気になったが、もう次の駅で降りなければならない。
 席を立つ様子も見られないので、彼らはまだ乗っているのだろう。
 僕は網棚から荷物を降ろし、席を立った。
 戦いはまだ続くのだろうか。
 そんなことを考えながら、2人の傍を歩いていく。
 電車から降りようとしたそのとき、微かに男の声が聞こえた。
 「あのな……ほんまごめんな。」
 どうやら男の幸福で幕が下りたようだ。
 ホームに立った僕の口元に、思わず笑みがこぼれた。
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