短編小説・ショートショート【極楽堂】

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真夏の森

 鬱蒼と繁る森の中、1人の少年が歩いていました。
 彼は昆虫が大好きで、今日もいつものように昆虫採集に来ていました。
 1匹の蝶を追い求めて彷徨していると、どんどん奥深くまで入ってしまい、道に迷ってしまいました。
 途方に暮れて、とぼとぼと歩いていると、向こう側に何やら人影が見えます。他に行く宛てもないので、その人影の方に行ってみることにしました。
 近くまで来てみると、そこにいるのは1人のおじいさんだということが後姿から分かりました。
 何をしているのだろうと、覗き込もうとすると、おじいさんはこちらに振り返りました。
 「やあ。」
 明るい口調で、少年に微笑みかけます。
 少しびっくりしましたが、少年も「こんにちは。」と挨拶を返しました。
 「どうしたんだい? こんな所まで。」
 額の汗を拭いながら、おじいさんが尋ねます。
 「道に迷っちゃったみたいで……」
 納得したように頷くと、おじいさんは向こう側を指さしました。
 「そこを真っ直ぐ進むと大きな道にでる。そこを通っていけば山から出ることができるよ。」
 満足そうな笑顔を浮かべ、近くの切り株に腰をかけました。
 「ありがとうございます。」
 お礼を言って、言われたとおりに行こうと思うのですが、おじいさんが何をしているのか気になって仕方ありません。思い切って尋ねてみることにしました。
 「何を……してるんですか?」
 さっきおじいさんがいた方を覗いてみると、そこには大きな穴がありました。
 「ああ、これか。」
 おじいさんも穴の方に目を向けます。
 「お墓だよ。」
 驚いた少年の目はまん丸になりました。
 「お墓? 誰のですか?」
 少しの間、沈黙になりました。
 時折、鳥の羽ばたく音が森の中にこだまします。
 「私のだよ。」
 静かな声で、おじいさんが呟きました。
 意外な答えに、少年は驚きを隠せません。
 「どうして生きてるのに、お墓を作っているのですか?」
 その問に、おじいさんの顔は険しくなります。
 「生きてる? 生きてるっていうのはどういうことなんだろう。私は本当に生きているのだろうか。」
 その言葉が何を意味しているか、少年には理解できません。
 「生きてるじゃない。今だって話をしてるし。」
 思ったことをそのままぶつけてみます。
 「話をしていれば、それは生きてるってことになるのかな。」
 おじいさんは立ち上がると再び穴の方へ、歩いていきます。
 「そうだよ。おじいさんは生きてるよ。」
 そう言いながら、少年もその後に続きます。
 「君にとって、私は生きているかもしれない。けれども私にとって、私は生きていないんだ。」
 何を言っているのかますます理解できません。
 深い皺が刻まれたおじいさんの手を、少年の柔らかく瑞々しい手が包みます。
 「ほら、手だってこんなに温かいよ。やっぱり生きてるじゃない。」
 若さの溢れる手を、おじいさんは優しく引き剥がしました。
 「そうかもしれない。でも動いているか、動いてないか、そんな簡単な理由で、生死を決めることができるのだろうか。私はできないと思う。妻が生きていた頃、私は一生懸命生きていた。妻の為に働き、彼女の傍にいるだけで、生きていることを幸せに思えた。それに比べ今はどうだ。最愛の人を亡くし、その上、友人たちも皆逝ってしまった。誰の為に、何の為に私はここにいるのか、分からない。」
 一陣の風が木々を大きく揺り動かしました。
 悲しげにカサカサと揺れる木。まるで泣いているかのような鳥の声。
 陽はもう落ちかけていて、空は淡い橙色のグラデーションを描いていました。
 「ボクにはそれは分からないけど。でもきっと、人はそれを探すために生きてるんだと思う。自分の本当にやりたいことや、1番大切な人を見つけるために、人は生きてるんだと思う。」
 うつむいたまま少年は静かに言いました。
 「もうやりたいことも無いし、大切な人もいなくなってしまった。君の言ったことが正しいとしたら、私はもう何もやることがなくなってしまったことになるね。」
 銃で胸を撃ちぬかれたような衝撃が、少年を襲います。
 再度、生きる定義を探し始めました。
 作業を止めたおじいさんは、穴の淵に腰を下ろし、少年の言葉を待っています。
 風は一段とその強さを増し、木はその度に悲鳴をあげているようでした。
 空の橙はもう姿を隠し始め、代わりに闇が一面を覆い始めました。
 必死に答えを探している少年。
 それを待つおじいさん。
 しばしの静寂。
 それを先に破ったのは、おじいさんの方でした。
 「なぁ、君。私なんかの為に、そんなに考えてくれなくていいよ。これから長い年月をかけ、その答えを見つけるといい。それでも見つからなかったら、今の私の気持ちが君にも分かるだろう。そうならない為にも、一生懸命毎日を生きなさい。私と同じ道を歩んではならないよ。」
 その言葉に、少年の目から温かい一筋の涙が流れます。
 「だめだよ死んじゃ。死んじゃだめだ! 生きている意味なんか分からなくていいじゃない。生きていればきっと楽しいこともあるはずだし。それに、おじいさんには今、ボクっていう友人ができたじゃない。ボクを悲しませないでよ。」
 心の奥から搾り出すようにして、発せられた思いは、おじいさんの視界をぼやけさせました。
 「君と私は他人だ。君は悲しまなくていいよ。」
 大きく首を振って、否定します。
 「ボクは悲しむ。きっと大声で泣くよ。」
 溢れ出す涙を、おじいさんは抑えることができません。
 「私は今生きている。ああ、こんな感覚は何年ぶりだろうか。」
 天を仰ぎながら、立ち尽くし、頬を涙が伝わっていきます。
 「しかし、これから1人で生きていく勇気が私にはもうないんだ。もう疲れ果ててしまった。」
 近くに立っていた少年を、両手で突き飛ばします。少年はそのまま穴から放り出されました。
 「1人じゃない。1人じゃないよ。ボクがいるじゃない!」
 その悲痛な叫びは、おじいさんの胸を突き刺します。
 「最後に君と出会えたことを神に感謝するよ。」
 そう言うとおじいさんは胸ポケットから黒い小型拳銃を取り出しました。禍々しい鈍い色が少年の瞳に映ります。
 「突き飛ばしたりしてすまなかったね。」
 微かに笑みを浮かべると、こめかみに銃を当てました。
 目を見開いたまま、その場に凍り付いてしまったかのように、少年は動くことができません。
 ただ見つめ続けることしか、彼には許されませんでした。
 そんな少年の姿を温かい目で見守りながら、おじいさんはその引き金を引きました。
 『バキューーーーーーン』
 大きな音が木々にぶつかり、鳥立ちが一斉に飛び立ちました。
 森はその音を聞いて、悲しみました。
 空には小さな光が輝いています。
 風は、ただ立ち尽くしている少年を、冷たく包み込みました。

 「やっぱり、やめることにするよ。」
 その言葉が、彼の耳に辿り着いたかどうかは、定かではありません。
 ある夏の日の出来事でした。
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