home > text > long

ミッドナイトゴーストツアー

「おお、ここか」
 薄汚れたグレーの壁の二階建てのアパート。
 築十年くらいだろうか。あまり新しいとはいえないデザインだ。側面の壁には黒の明朝体で『極楽荘』と大きく書いてある。
 聡からもらった地図が正しいならば、ここの202号室で間違いない。
 ほこりをかぶった手すりには触れず、階段を上がる。
 もう少しで暮れようかという夕焼けが、そのほこりさえもきらきらと輝かせる。
 細いボールペンのような字で書かれた『松田』という表札。どうやらここのようだ。
 チャイムを押すとピンポーンという音が部屋の中に鳴り響くのを壁越しにわかった。
 向こうから人が歩いてくる気配があり、ガチャガチャと鍵を開ける音。そして扉が開く。
「よう。来たか」
 ボサボサの髪の毛に、痩せた身体。そして黒のセルフレームの眼鏡。相変わらずファッションには興味がないようだ。
「まあ、あがってよ」
「ああ。ここで帰れといわれても、おれはあがるだろうな」
 玄関に小さな靴がある。
 いくら痩せているからといって、どう考えても聡の靴ではない。
「誰か来てるのか?」
「ん? ああ。ここのアパートの子どもがよく来るんだ」
「小学生?」
「たぶん」
「お前は勉三さんか」
「は?」
「いや、なんでもない」
 靴を脱いで、部屋に入ると、小学五〜六年生かと思われる男の子がゲームをしている。少し丸っこい感じで、髪はスポーツ刈り。おれの方をチラッと見ると「チワース」と軽く頭をさげた。
 これだから最近のガキは。
 ちゃんと挨拶くらいしやがれ。
「彼、いつもウチにゲームしに来るんだ」
「ゲームには事欠かないだろうからな」
 部屋を見回すと、六帖くらいの部屋をうめつくさんばかりにゲームが陳列されている。ジャンル問わず、アクションからRPG、そして大作からマイナーまで、なんでもござれだ。棚の上には、こまごまとしたフィギュアが並べられている。
「どうぞ座ってよ」
 聡はおれの前にクッションを差し出した。「ああ」と答えてそれに座る。大量にゲームがある割に、部屋は片付いていて、いわゆる男の一人暮らしの汚さとは無縁のようだ。
 小さなテーブルをはさんで、聡と向かい合う。おれは土産代わりに持ってきた缶ビールをテーブルの上に置いた。
 ガサッという音に反応して、ガキがこっちを振り返る。にやにやした顔で「それなに?」と聞いてくる。
「子どもには関係ない」
「ちぇっ。ビールか。あんな苦いもの、なんで大人は飲むんだろうね」と言って、再びテレビの画面に戻った。苦いと分かるということは、飲んだことがあるということだな。
「で。話というのは?」
「ああ。そうそう克也から面白い話を聞いたんだ」
「克也から?」
 嫌な予感がする。
 克也はおれたちの共通の友人だが、時折突拍子もないことを言い出す。マンションの屋上でUFOを呼び出そうとか、隣県の沼にナントカシーという未確認生物がいるらしいから見に行こうとか。子どもがそのまま大学生になったような男だ。
「隣の浄土町に心霊スポットがあるんだって」
「心霊スポット? どうせただの噂話だろ」
「いやいやいやいや。すごいらしいよ」
「どうすごいんだよ?」
「見えるだけじゃなくて、触れるみたい」
「幽霊って透けてるんじゃないのか?」
「一般的なイメージはそうだけどね。でも、よくホラー映画とかで首絞めてきたりするじゃん。テレビから出てきたりしてさ」
「ああ、一時期話題になったな」
「そうそう」
「つうか、それって危なくないか?」
「まあ大丈夫じゃないの?」
 こいつの『まあ大丈夫』というのは、今まで大概が大丈夫ではなかった。身に危険が及んだことも一度や二度ではない。なのに、なぜこんなに楽天的でいられるのだろうか。
「そこに行くのか」
「ピンポーン」
 聡は楽しそうに表情を崩した。
 まったくこの男は。
「断る」
 きっぱりとその申し出を拒否する。
 すると聡は理解できないといった顔で「え? なんで?」と聞いてくる。
「なんでも何も。別に行きたいとも思わんし」
「大丈夫だよぉ」
「その根拠は?」
「だって克也が行ってきたって」
「は? あいつ行ったのか」
「うん」
「それで?」
「ちゃんと触れたって興奮してたよー。すごいよねぇ」
「まじかよ」
 なんでこいつらはそんなに幽霊に触られたいのだろうか。同じ触られるなら、若い女性の方がいい。
「あれ、お兄さん。もしかして怖いの?」
 ガキがニヤニヤしながら、話にまざってくる。
「んなわけないだろう」
「じゃあ行ったらいいじゃん」
 思わず顔をしかめる。なんだってんだ、このガキは。
「お前、名前は?」
「富田広康、11歳」
「年齢は聞いてない」
「サービスだよ、サービス」
「そんなサービスは結構だ」
「で、行くの行かないの?」
「行く気はない」
「えーっ」
 そこで聡が大げさに声をあげた。
「行こうよ。面白そうじゃん」
 懇願するような声で聡が言葉を続ける。
「そうそう。行くんだったらおれも連れてってよ。あそこの話は前から気になってたんだよねー」
 いつの間にかゲームの電源を落としていたガキがしつこく食いついてくる。それに続けとばかりに聡も言葉をはさむ。
「ねえ、行こうよ」
「行こうよ行こうよー」
 なんだ、こいつら。
 息ぴったりじゃないか。
「お兄さん、退屈な日常にはもううんざりでしょ? ここらでちょっとした刺激が必要だって」
「おーおー、もっと言ってくれ、広康」
「平凡な毎日へのスパイスだと思って、行ってみましょうよ、ダンナ」
 小学生とは思えないセリフだ。どこのポン引きだよ。
「黙れ、小僧」
 静かに一喝すると、一瞬は静かになったものの、またあーだこーだ言い出した。このままではキリがなさそうだ。
「あー、うっさいうっさい。わかったよ。行けばいいんだろ、行けば」
「さすが、話がわかりますねぇ、社長」
「うんうん。やっぱりキミはやる男だと思っていたよ」
 そのとき、聞きなれない電子音が鳴った。
「あ、電話だ」
 広康はポケットからケータイを出した。最近は小学生までもケータイを持ってるのか、と変に感心した。
「飯だから、帰ってこいってさ」
 電話を切った広康が立ち上がる。
 壁にかかっている時計を見ると、もう六時半近かった。
「んで、いつ行くの?」
「まだわからん」
「行くとき絶対教えてよ。なんとか家ぬけだしてくるし」
「わかったわかった。わかったから早く帰れよ。ママに怒られるぞ」
「今どきの子どもはママなんて言わないよー、お兄さん」
 イチイチ癪に障るガキだな。
「じゃ、帰るわ。またね、松田さん」
「ああ、じゃねー」
「それと。んー、まだ名前聞いてなかったよね?」
「ん? ああ。桂木時男だ」
「トキオっていうの? かっけー」
 おおげさに大きな声で広康は感嘆した。
 まったく子どもというのは感情がストレートだ。何歳からおれたちは周りの目を意識して、感情を操るようになるのだろう。
「じゃね、トキオー」
「呼び捨てにするな、小僧」
「はいはい。じゃ約束だからね。ではでは」
 そういい残して広康が帰ると、部屋の中は一気に静かになった。台風一過といった様子だ。
「それで、いつ行くの?」
「早い方がいいだろう」
「今晩?」
「そうだな、せっかく来たんだし」
「じゃ後で広康くんに連絡しなきゃ」
「いや、やめとけ」
「へ? なんで? 約束したじゃん」
「あのなぁ。万が一だぞ、何かあったらご両親になんて説明するんだよ。勝手に連れ出して、とりつかれでもしたら、責任とれるのか?」
「とれないけど、でも」
「行ったこと言わなきゃわかんないだろう」
「うーん」
「あいつのことを思ってのことだぜ」
「わかった。わかったよぉ」
 なんとか聡を納得させる。
 まあ、本当は生理的に好かんからだけどな。
 大人は汚いよ。



 持ってきたビールを二人で空け、だいぶ夜も更けてきた。
 そろそろ行こうかということになり、家を出る。
 二人とも車を持っていないので、とりあえず電車で隣町まで行く。幽霊を見に行くときというのは、車が定番なのだろうが。
 終電は、飲み屋帰りのサラリーマンなどで結構混んでいた。赤い顔をしたおっさんたちが、大きな声で管を巻いている。
 ああいうふうにはなりたくない、と彼らも昔は思ったのだろうか。
 二〇分くらいして、目的の駅に着く。
「で、どこなんだ、その場所って」
「浄土沼だよ」
「浄土沼? 沼なのか?」
「うん」
 幽霊というからにはてっきりつぶれたホテルとか廃病院とかを想像していたのだが、沼とは。ずいぶんアウトドア志向だな。
「歩いていくのか?」
「結構あるからねえ。タクシー乗ろうか」
 終電後の駅には赤い顔の男たちを送り届けるためのタクシーが列をなしている。
 その中の一台に乗り込む。
「お客さん、どこまでですか?」
 低いバリトンの通る声で、運転手がバックミラー越しにおれたちに尋ねた。
「浄土沼まで行きたいんですけど」
「わかりました」
 そして、車は走り出した。
 タクシーのライトや、ビルのネオンなどが少しずつ遠ざかっていく。夜の街の喧騒もだんだんと聞こえなくなっていった。
「お兄さん方、浄土沼にはどういったご用事で?」
「え? ああ……」
「見た感じ、釣りといった感じでもないですけど」
 しまった。
 釣竿でも持ってくるんだった。夜中に何も持たずに沼に行けば、そりゃ怪しまれるに違いない。おれが言葉を濁らせていると、聡が後を継いだ。
「いやね。昆虫の研究なんですよ。ぼくたち大学で虫について勉強しているんです」
「ほお。そうなんですか。どういった類のものを?」
「水辺に棲む虫たちの生態系を調べています。なんでも浄土沼はちょっと変わった生態系を持っているみたいなんですよ」
「なるほど、それは初耳ですなあ」
 感心したように運転手は何度もうなずいた。
 おれもスラスラ出てくる聡の嘘に感心した。
「いやね、わたしはてっきり」
 そこで運転手はしまったといったふうに言葉を止めた。
「てっきり、なんですか?」
「え? は、ははは。なんでもないですよ」
 ごまかしているのは明白だ。
「運転手さん、途中で話やめられたら続き気になりますよぉ」
「でもですねえ」
 おれと聡はお互いに顔を見合わせた。
 どうやらまんざら嘘でもなさそうだ。
 おれはカマをかけてみることにした。
「もしかして、幽霊が出るとか?」
「えぇっ? ご存知なんですか?」
 ビンゴ。
「先輩から聞いたんですよ。ぼくたちを怖がらせるために言った作り話だと思ったんですけど、本当なんですか?」
 聡は抑えきれない好奇心をむき出しにして、目を輝かせている。
「わたしも実際に見たわけではないのですが、そういう話は仲間から何度か耳にしたことがあります」
 運転手はさきほど躊躇った続きを話し出した。
「ただ、人によって内容が多少違っていて、髪の長い女の霊だとか、赤い服を着た女の子だとか、いろんなパターンがあるようです」
 車はどんどん人里から離れていき、周りには少しの民家と田んぼしかなくなっていた。
「それが沼の向こうに見えたかと思うと、すーっとこちらに近づいてくるのだとか」
「水の上を通ってですか?」
「ええ。ですからみな驚いて、すぐに逃げ帰ってしまうようです」
「その中で、幽霊に触られたという人は?」
「触られた、ですか? いえ、そういう話は聞いたことがありませんが」
「そうですか」
 触られたという話はないようだが、どうやら出るらしいというのは俄然真実味がでてきた。
「これから調査に行くのに、すみませんね。こんな話しちゃって」
「いえいえ、いいですよ。ぼくたち幽霊とか全然信じてないんで」
 しれっとした顔で聡が答える。そしておれの方を見て、舌をだした。まったく子どもみたいなやつだ。
「そろそろ着きますよ」
 周りはたくさんの木々が覆いかぶさっていて、闇をさらに濃くしている。
 なるほど。
 確かにおあつらえ向きのシチュエーションだ。
「ここから先は車だとちょっと大変なんで、この辺でいいですか?」
「ええ。ありがとうございます」
 料金を支払い、車を降りる。
 森の中なので、もちろん街灯などはなく、車がいなくなると、辺りは深い闇となった。
 聡はナップザックから懐中電灯を二つ取り出し、その小さい方をおれに手渡した。
 真っ黒な中に小さな白い光がともる。
 ほんの小さな光だが、今のおれたちにはとても頼もしい光だ。
 時折、風で林がざざざぁと鳴く。
 道とも言えないような獣道をおれたちは歩き始めた。
「いやあ、これは雰囲気あるねえ」
「……まあな」
 ハイキングを楽しむように聡が声をかけてくる。
 まったく、聡といい克也といい、こいつらには恐怖という感覚がすっぽりと欠落しているに違いない。でなければ、好き好んでこんな闇の森の中を歩くわけがない。
 口では強がっていたものの、おれは多少怖くなってきていた。
 ケータイを見ると、電波は普通に三本立っている。こんな山奥まで電波が届いているとは。
 しばらく歩いていると、ようやく「浄土沼 この先二〇〇メートル」と書かれた標識に出合った。
「もう少しだねえ。いるかな、いるかなぁ」
 返事をするのもうんざりだった。
 闇の中を歩くというのは、普段以上に疲労を感じる行為だとおれは痛感していた。
「あれ?」
 ふと聡が立ち止まった。
 突然だったので、思わずぶつかりそうになる。
「どうした?」
「ほら、あそこ」
 聡は懐中電灯の光で、向こう側を指した。
「誰かいない?」
 そのとき、『ピピピピピ』と急に電子音が鳴り響いた。おれは思わず「おわ」と間抜けな声をあげ、腰が抜けそうになった。だがなんとかその一歩手前で踏みとどまる。
「あ、電話だ」
 普段通りのリアクションで聡は電話に出た。いつかやつの心臓を見てみたいものだ。きっと毛むくじゃらに違いない。
「はーい。もしもし。え? ああ。うん。えーと」
 電話で話しているため、聡の懐中電灯の向きが変わり、先ほどの人影らしきものは見えなくなった。
 おれはゆっくりと自分の懐中電灯をさっきやつが指した方に向けた。
 そして、今度は腰を抜かして、その場にへたり込んだ。
 懐中電灯はめちゃくちゃな方向を指しながら、地面に転がった。
 人影はさっきよりも近づいていた。
 明らかにこちらを目指している。
「え? ほんと?」
 聡は依然として話を続けている。
 どういう神経をしているんだ。
「お、おい。聡」
 震えて声にならず、なんとか力をこめてそう言った。
 しかし、でかい声で話し続けるやつの耳には届かない。それよりもその場で座り込んでいるおれに気づきそうなものだが。
 こいつが一つのことに集中すると周りが見えなくなるタイプだったことを思い出した。
 突然、聡がさっきの人影の方に明かりを向ける。そして「ああ」と大きな声をあげ、手を振った。
 そうすると向こうから「やっぱりねー」と聞き覚えがある声がした。
「大人は汚いよ」
 広康がニヤニヤしながら、すぐ側に立っている。
「あれ? トキオなんで座ってるの?」
「え? あ、ああ。疲れたから休んでたんだ」
 おれは精一杯の虚勢を張る。
 呼び捨てにするなと言う余裕はとてもなかった。



 どうやら話を聞いた広康は待ってるのももどかしく、ひとりで来たようだ。
「どうも教えてくれないような気がしてさー。特にトキオが」
「呼び捨てにするな。たまたま連絡するのを忘れただけだ」
「忘れた? またまた。だって今日話したばっかでしょぉ」
 広康が混ざることで、だいぶ恐怖が和らいだ。どうもこいつも恐怖という感情は持ち合わせていないようだ。
「あ、あったよ」
 聡が懐中電灯を前方に向ける。
 ゆらゆらとした黒い水面が光に照らされた。
 これが浄土沼か。
「結構大きいんだな」
「だね」
「どう? 出そうな感じじゃない?」
 妙にうれしそうな様子で広康がおれたちを見上げた。
 そばまでやってくると、水独特の匂いが微かに鼻腔をくすぐった。
「で、どこにしようか?」
「なにが?」
「このまま歩いていてもしょうがないでしょ? だからどこかに陣取って座ろうよ」
「ああ」
 確かにこんなところを一晩中歩いていろと言われたら拷問に近い。
「水面を来るわけだから、やはり水に近い方がいいだろうな」
「でも、あんまり近すぎると、ぬかるんでるんじゃないかなぁ」
「ああ」
「どこでもいいから早く座ろうよー。疲れたー」
 ガヤガヤと騒ぎながら、三人でベストポジションを探す。
「あ、ここいいんじゃない?」
 あまり草が生い茂っておらず、遠くまで見渡せそうな場所を聡が見つけた。
「そうだな。ここならどこに出現しても確認できそうだ」
「いいね、いいね」
「よし、じゃあ」と言いながら、聡がリュックから敷物を取り出した。光を照らすと、赤とか黄色とかのカラフルな縞模様のやつだった。
「なんだか遠足みたいだな」
「うわ、なつかしー」
 小学生の広康が懐かしいというのだから、よほどのものなのだろう。
 できるだけぬかるんでないところを選び、そこに三人で腰を下ろす。
「さ、これで準備万端だ」
「早く出ろ出ろ」
 二人は相撲の升席にでも座っているような感じだ。
 目をキラキラさせながら、沼に熱い視線を送っている。
 やがて一時間が経過した。
 一向にそれらしい気配はない。
 初めのうちこそ、わーわーうるさかった広康は、早くも眠りについてしまった。時折、聡もガクッガクッと首が前に倒れかけている。
 今日は出ないのだろうか。
 大きくあくびをして、ぼんやりとそんなことを考えていた。いくら幽霊だからといって、年中無休ということもあるまい。たまには休むこともあるだろう。
 すると突然、広康が「ぎゃっ」と言って、起き上がった。急なことだったので、おれは思わず「おわふ」と意味もない声をあげてしまった。
「どうしたのぉ?」
 大きな声に起こされた聡が眠そうに尋ねる。広康は起きているのか寝ているのかわからないような虚ろな表情で「なんかに刺された」と言って、また眠りについた。
 なんなんだ、こいつは。
 おれは見たことのない生き物を見るような目で、広康の顔を凝視した。
 そこで、ふと右腕にチクリとした感触がある。咄嗟に左手で叩く。確かに蚊がいるようだ。こんな水辺なのだから、当たり前と言えば当たり前だろう。
 思い出したように聡もぴしゃりと叩いている。
 静寂の中、おれたちのぴしゃりぴしゃりというだけがこだます。
 そのまま特にイベントが発生することもないまま、だんだんと空が明るくなってきた。
「来て損した」
 大きく伸びをしながら、おれはぼやいた。
「まあ、こういうこともあるよ」
 聡は軽く笑いながら、頭をかいた。
 さすがに少しがっかりしているようだ。
「そろそろ帰るか」
「そうだね」
 こんな明るさなら幽霊も恥ずかしがって出てこないだろう。
 すやすやと眠る広康の頭を軽くこづく。
 結果として、こいつに二度も驚かされたことだけが、今回のイベントだった。
「ん? う、はあああぁ」
 ゆっくりと両手を高くあげ、広康が目を覚ます。
「ふあぁ。今、何時?」
「ん。五時を回ったところだな」
 眠そうに目をこすりながら、広康は大きくあくびをした。
「で、結局出た?」
 おれたちの顔を交互に見比べるが、おれたちは黙って首を横に振るだけだった。
「そっか。なーんだ」
「そろそろ帰るよ。トキオ、そっち持って。これ片付けるから」
「おう」
 聡の指示に従い、シートを片付ける。
 徹夜独特の倦怠感が身体中にまとわりつく。よくもまあこんなことを一晩中もしていたものだ。
 そのまま三人で口数も少なく、帰途についた。
 早朝のせいか、なかなかタクシーが通りかからず、帰り道も大変だった。



 空は嫌味なくらいに快晴で、日差しが容赦なく身体を照りつける。
 もう七時になろうかという時間に、ようやく自分の家まで帰ってくることができた。
 今日は金曜だから、広康は今頃学校に行ってるのだろう。その点、大学生は楽なものだ。今日は授業は午後からだった。
 とりあえずシャワーを浴びて、一眠りしようかと思っていると、携帯が鳴った。
 表示を見ると「松田 聡」とあるので、とりあえず出る。
「もしもし。トキオ?」
「ああ、どうした?」
「ビックリしたよっ」
「だからなんだよ、そんなに興奮して」
「幽霊っ」
「幽霊?」
「そうそうそう。昨日、っていうか今日の?」
「何も出なかったじゃないか」
「違うんだ。出てたんだよ。出てたのっ!」
「はあ? おいおい。まさか広康が幽霊だったとか言うんじゃないだろうな?」
「そんなわけないでしょ。彼は二つ隣にちゃんと住んでるよ」
「じゃあ、何だって言うんだよ」
「腕見てよ、腕」
「腕? どっちの?」
「どっちでもいいから早く」
 何を言っているのかわからなかったが、大人しく自分の腕を見てみる。ちょうどシャワーを浴びようと思って、上は脱いでいたので、すぐに何もないことが確認できた。
「何もねえよ」
「でしょっ?」
 何言ってんだ、こいつは?
「まだわかんないの? 昨日のこと思い出してよ」
「昨日のこと? 夜に浄土沼に行って、そこに広康がいて、それで三人で無駄な時間を過ごした」
「まあそうなんだけどね。夜中に広康くんが起きたでしょ?」
「ああ『なんかに刺された』とか言って急に起きたな」
 ん?
 おれはもう一度、両腕をじっくりと見た。
「あれ?」
 そのまま両脚まで見てみるが、何もない。
「これがそうだって言うのか?」
「そう!」
「いやはや、なんとも」
 確かに幽霊に触られたというわけか。
 それにしても……。
 全然怖くないな、蚊の幽霊なんて。

May 14, 2007


home | text | bbs