福コン

「福コンに行こう」とOからメールがくる。
福コン?
調べてみると、男女1000対1000の壮大な規模の合コンらしい。
震災以来、外で飲むこともなくなったので、いい気晴らしになるかと思って行くことにする。
考えてみると、新幹線に乗るのも久しぶりだ。記憶をたどってみると、どうも2006年以来のようだ。5年ぶりになるのか。
福島駅に到着し、温度計を見ると37
かなり暑い。時間は17時少し前である。
福コンでは3枚つづりのチケットが渡される。最初の1軒目は指定されているのだが、次からは参加40店舗の中から自由に選んでよい。ちなみに料金は前売りだと男性6500円、女性3500円である。
3軒で飲み食いできると考えれば、なかなかリーズナブルである。
1軒目は大きめの店で120人超の客がいた。
基本的に1軒での滞在は1時間以内となっている。福コンの開催時間は17時から21時なので、移動時間も考慮すると、そのくらいがちょうどいい時間となる。
50分くらい滞在したところで、次の店に行くことに。
今度はOの知っている人の店だった。
まだ前の人たちが残っていて、しばらくカウンターで待つことに。さっきの店に比べると、規模も小さく、20席くらいである。
カウンターで待っていると、徐々に人が増えてはくるのだが、なぜか男ばかりである。
やがて前の人たちが移動し、席に通される。だが、各テーブルに男だけが座っているという、ちょっと滑稽な状況に。
さすがにとうとう女性がやってくる。
この調子だと男性率が高いのは間違いなさそうなので、店員がテーブルをくっつけて、なんとか男だけというさびしい状況を回避してくれた。といっても、自分たちのところは男7、女2だった。
というわけで、そこそこにその店を切り上げつつ、3軒目へ向かう。
ここで困ったことに。
どこへ行っても席がないのだ。
一斉に時間が切り替わるわけではないので、どうしても滞在時間にずれが生じ、まだ前の人が残っているというケースがほとんどで、行けども行けども店に入れない。
できれば飲み放題の店がいいなといっていたが、最終的には入れればいいやということで、3杯制限の店に入った。
Oと2人で空いているテーブルについたので、こりゃいつもの飲みと変わらないかなと思っていると、ちょうどいいタイミングで女性が2人きて、2対2になった。というわけで、本来の趣旨通りの展開となる。
まぁ特になにもなかったが。
それでもなかなか新鮮な体験であった。


100日が過ぎて

万物は流転するものであり、同じ姿であり続けるものはない。
すべてのものがそうなのだから、一店舗がなくなったりするのは、当然のことである。
先の震災の影響で、よく行っていたゲーセンが閉店した。
「踊るサッカーボール」「負けられない戦い」の舞台となったゲーセンである。
わたしが住んでいる地域は、ゲーセンらしいゲーセンがほとんどないので、これはかなり痛い。今後はそれなりの設備があるゲーセンに行こうと思ったら、車で一時間はかかる。
自分がやりたいゲームがあると、休日通いつめるということが何度かあった。そのため、普段絶対出会えないような人たちとも出会うことができた。
さらに近隣に2軒あったネットカフェも、どちらも閉店するようだ。片方に至ってはもう建物が崩されていた。
これもまた痛手である。
もちろん漫画は、月に何冊か新刊を買っている。だが、割合でいうとネカフェで読んでいる方が多い。その方が気軽に読めるし、途中まで読んでみて合わないと思ったら読まなければよい。本当に面白ければ一度読んでから購入するという試し読みの意味もある。
本来の意味とは異なり、仮眠やゲームをするための場所としても非常に貴重であった。
酒を飲みに行った場合、そこで仮眠することがよくあった。
3人以上で行くと、フローリングタイプの部屋を借りることができ、そこで普通に横になって寝ていた。その間、眠くない人は漫画を読んだり、ネットをしたりもでき、めいめいが好きなことをして過ごすことができた。テーブルがあるので、趣味のひとつであるボードゲームができるというのも、大きな魅力であった。
このボードゲームに関しても大きな変化があった。
毎週のように集まって、みんなでボードゲームをしていた場所が、今は避難所となっている。そのため、もちろん我々が利用することができなくなってしまった。
これもまた大きな痛手である。
そこで遊んでいると、通りかかった人もどんどん混ざり、多いときは10人以上もの人々がそこに集まっていた。
それもまた、そこでしか得ることができない出会いであり、非常に価値があるものだった。
ただこちらは建物がなくなったわけではないので、いずれはまた利用することができるだろう。
細かいことを言えば変化したことはもっともっとある。
だが、それはもう元に戻すことはできない。
価値というものは失って初めてわかる。
というのはよく言われることだが、本当にその通りであった。


東日本大震災

家のベッドにいて、ウトウトしていたときだった。
グラグラと揺れはじめる。
最近は地震も頻繁にあり、またかという気持ちで、そのままベッドにいた。
だが、どうもいつもと様子が違う。
揺れはどんどん大きくなり、全然やむ気配がない。
これはいよいよ来たかと思った。
宮城県では何年も前から99パーセントの確率で大地震が起きると言われていた。
とりあえず倒れて一番マズそうなもの、パソコンとディスプレイを抑える。
ようやく揺れがやむ。
自分の部屋はそんなに荒れていなく、そのときは「すごい揺れだったなぁ」くらいの軽い気持ちでいた。
だが、部屋を出ると一変。
本棚にあった数百の漫画が崩れ落ちている。下に降りると、大量の食器が割れていた。
そして電気が消えていることに気づく。
もしやと思って水道の蛇口をひねるが、やはり水も出ない。
マジか。
まぁでも明日くらいには直るか。
この楽天的な考えが大間違いだった。
電気が戻ったのはそれから7日後、水道が出るようになったのは21日後である。ちなみに給湯器は未だに復活しておらず、自宅ではまだ風呂に入ることができない。
電気がない日々は暗くなると何もすることができないので、18時過ぎには寝ていた。なので1日の半分くらいは寝ていたと思う。
ガソリンも手に入りづらい状況だったので、極力車も使わず、本当に家でじっとしていた。することと言ったら、部屋の片付け、読書、給水車まで水をくみに行くくらいで、楽しみといったら食事くらいだった。
さいわいガスは都市ガスではなく、プロパンガスだったので早い段階から使えていた。なので、温かいものが食べることができた。この点は本当にツいていた。
電波が回復するようになると徐々に知人たちの安否も知れて、ほっと胸をなで下ろす。家が流されてしまって生存が絶望視されていた友人も、なんと家の屋根の上とボートで漂流して生き延びていた。実際に本人に話を聞いたのだが、本当に奇跡としか言いようがない話だった。
今、ようやく一ヶ月が過ぎた。
物資は安定し始め、食料品や身の回りのものも手に入るようになった。ガソリンも少し前から並ばずに買えるようになった。
もちろんこれは一部の話であって、車でちょっと行けば、まるで空襲を受けたかのような恐ろしい光景が広がっている。
つい先日もまた大きな余震があり、一時的に電気、水道がダメになった。こちらはすぐに復活したので助かった。
余震はまだ、収まる気配がない。


初対面送別会

従兄弟との関係というのは、どの程度の距離感が通常なのだろうか。
2、3人しかいないならまだしも、10人以上もいて、さらには県外などに住んでいようものなら、各個に対する詳しい認識はなかなかに困難だ。
かくいうわたしも結構な数の従兄弟がいて、顔もあやふやな人もちらほらいる。
そんな状況で、自分の従姉妹のひとりがアメリカに住んでいて、国際結婚をしているということを知った。
そもそも子どものころから、彼女とはさほど接点もなかったので、知らなかったのも無理はない。恐らく数回しか会ったことがない。
その夫妻が正月、日本に帰ってきており、またアメリカに戻るのに際し、親戚一同で送別会をするから来ないかと誘われる。
初対面で送別会。
なかなかに珍しい機会である。
行ってみることにした。
いざ会ってみるとやはり大きい。180後半はあろうか。そんな人が古い日本家屋にいるものだから、家がドールハウスのようである。
年齢は50代半ばくらい。めがねをかけていて、短い白髪である。日本語はほとんど話せない。ただ箸の使い方は奥さんにみっちり教えられたらしく、上手に使っていた。
日本酒が好きで、こちらに来てからいくつか酒蔵を回ったりしていたそうだ。あっちにも日本酒はあることはあるらしいが、質があまりよくなく、しかも高価らしい。
みんなが話せ話せというので、なんとか会話を試みる。
が、初対面でいきなり何を話せというのだ。
日本人相手でもそんなにしゃべれる自信はないぞ。
自己紹介などを話したのち、彼が話すのを聞いていた。
日本語の名詞の多さや、相手がなんと言ったかを通訳してもらうときに、あまりにも言葉の長さが違うことに驚いていた。
外国の人と英語で話すのは実に数年ぶりだったが、意外とちゃんと聞き取れた。やはり勉強はしておくものだ。
ほどほどに会話を切り上げ、久しぶりに他の従兄弟たちと話をする。
大人になってから何回も会っているのはK兄弟くらいしかいないので、かなり新鮮だった。そのまま、その勢いでアドレスなども交換する。こうやって従兄弟同士、定期的に集まろうじゃないかという話にまとまった。
それからもうひとつ、今回実感したのは自分がいかに大人になったかということである。何しろ小さい子どもが多い。イコール、従兄弟たちはほとんど結婚していて、それぞれに子どもが何人かいるということである。
このブログに登場したことがあるKも、今年で2児の父である。
時が流れるのは早い。


実習の果て

大学のときに教育実習に2回行っている。
1度目が3年生のときで(参照:実習地獄)、2度目は4年生のときに協力校、簡単に言うと公立小学校なのだが、その中で自宅から最も近いところに行った。これは協力校の中で最も近いということであり、実際は電車で40分ほどかかった。
去年が去年なだけに、またどんなエライ目に遭わされるかと思ったのだが、そんなことは全然なく、いささか拍子抜けするほどであった。
授業計画も1回で通るし、放課後残って、身を切るような反省会をすることもなかった。実際、わたしの担当の先生は5時過ぎると、だいたいすぐに帰っていた。
あー、これが普通の学校なのかと、去年の辛さが自然に思い出された。
わたしが担当したのは4年生だった。
みんなかわいくて、とてもよく懐いてくれた。だが、その中にひとり、なかなか厄介な男の子がいた。
授業中に大声で関係ないことを言ったり、他の生徒をたたいたり、かと思えば午前中ずっと寝ていたりと、絵に描いたような問題児だった。
先生が注意しても馬耳東風。
とにかく傍若無人なのだ。
子が子なら、親もさるもの、一筋縄ではいかないらしい。
さすがに見かねた先生が、電話してお母さんに何とかしてもらえないかお願いしたそうだ。けれども、全然直らない。
そしてまたお願いする。
直らない。
またお願い。
直らない。
そんなことが繰り返されたらしい。
ある日突然、母親が泣き出したそうだ。
「なんで、先生はそうやってうちの子ばっかり責めるんですか!」と言われたらしい。
えー……。
そういうことがあったため、もう母親の協力は仰げそうにもなく、今に至るらしい。
第三者の目から見ても、彼の行いはひどかった。かなりの気分屋で、機嫌がよければ騒ぐし、悪ければまともに会話もしない。間違いなく他の子にも嫌われていただろう。現に何度もその旨の話を他の子から聞かされていた。
この場合、一体どうすればいいのだろうか。
ひとりひとりを尊重するという建て前に則り、その子を自由にさせておくべきだろうか。
いや、そんなことはないだろう。
事実、その子ひとりによって、多くの他の子の権利が侵略されているに違いない。
直接注意してもだめ、母親は力になってくれない。そんな状況でどうやって改善していくのだろうか。
考えてみると、彼ももう成人しているはず。
いったいどんな大人になったのだろうか。