カテゴリー : 短編

彼のバッグとぼくのうどん

午後からの面接を考えると気が重い。
それなりに練習をしてきたとはいえ、やはり緊張の度合いが違うものだ。
普段着なれないスーツもまた、身体全体に重くのしかかる。
しかも最近はこの不景気だ。内定さえも取り消されるくらいである。
ぼくみたいな何の取り柄もない男が果たして採用してもらえるのだろうか。
また胃がきりきりと痛む。
そんなに食欲もなかったが、とりあえず何か腹に入れておこうと思い、近くのデパートのフードコートまで来てみた。
ちょうど昼時ということもあり、店内はそれなりに活気にあふれている。六割くらいの席が埋まっているだろうか。
小さい子を連れた母親、作業着姿の男性たち、線が細い学生らしき青年。さすがに平日なので中高生の姿はない。
こんな心境ではそんなに重いものを食べられそうもなく、ぼくはかけうどんをトレイの上に乗せ、どこの席に座ろうか辺りを見回した。
窓際に、四人掛けの席が空いており、そこに座ることにする。
テーブルにトレイを置き、椅子に座ったとたん溜息がでる。
はぁぁ。
我ながら気が小さい。
何とか、うどんを胃に流し込み、一息つく。
時計を見ると、まだ面接までは三〇分以上ある。
とりあえずボーッと周りを見渡す。
楽しそうに談笑している人たちもいれば、ひとりでケータイをいじっている人もいる。改めて見回すと、人それぞれでなかなか興味深い。
そこでふと、ひとりに青年に目がいった。
痩せ型で、黒の太いフレームのメガネをかけ、青のストライプのシャツを着ている。どこにでもいそうな最近の若者といった風体だ。
ぼくは彼に、というか彼の持っているバッグに興味をひかれた。
色といいデザインといい、前から欲しいなと思っていたぼくの理想にぴったりだった。
どこのメーカーなのだろうか。いいなぁ、あれ。
彼はそのバッグをテーブルに置くと、出来上がった料理を取りに行った。
そのとき、グレーのスーツを着た中年の男性がそのテーブルに近付いてきた。
身にまとっている雰囲気からいって、さっきの青年と知り合いとは考え難い。三〇後半か四〇前半。仕事ができるサラリーマンといった風貌だ。
そのサラリーマンらしき男性は、さっきの彼が席を立つのを見計らっていたようなタイミングで、彼のバッグに近付いていく。
男は、後ろをちらっと一瞥すると、慣れた手つきでバッグを探り、次の瞬間、手には茶色の財布を持っていた。
え?
あれってもしかすると、……置き引き?
目を丸くしてそれを見ていると、スーツの男はどんどん席から離れていってしまう。
え、どうしよ?
え? えっ?
料理を取りに行った彼が戻ってくる。
バッグはさっきと同じ場所にあり、見た目に異状はない。
彼はそのまま席につき、ラーメンを食べ始めた。
ぼくはドキドキしながら、去っていったスーツの男を探す。
きょろきょろ見回すが、もうかなり遠くまで行ってしまっており、やがて視界から消えた。
頭をフル回転させ、いろいろな可能性を考える。
彼らはが知り合い、または兄弟で財布を借りていった?
絶対にないとは言い切れない。ただあの取り方は他の人に気づかれないようにという手つきだった。
というか、知りあいでも勝手に財布持っていったらマズイよな。
頭の中でその可能性にバツをつける。
ここでぼくが彼に財布とられましたよと教えたら?
絶対不自然だ。
というか、何で止めなかったのかと怒られるかもしれない。
それに今更そんなことを言われても、といった感は否めない。
もし警察沙汰にでもなれば、時間をとられることは必須だ。
さっきのスーツの男を探す?
それが一番いいような気が……。
ただ、もうどこに行ったか分からないし、しらを切られたらこっちが変に思われるかもしれない。
逆ギレでもされたらどうなることか。
あー、どうすればいいんだ。
あんな光景、見なければよかった。
えーと、えーと。
うーん。
……見なかったことにすればいいかな?
それが一番無難だよな。
うん。
そうだそうだ。
ぼくは何も見なかった。
だから何も知りません。
彼の財布がとられようと、ぼくに実害はないわけだし。
ちょっと今日は忙しいし。
力弱いし。
気も弱いし。
自分に対して言い訳をしながら、ふと目をあげると、ラーメンを食べ終えた彼が席を立とうとした。
あっ。
トレイを持ち上げ、食器を下げに行く。
どうしよ。
本当にいいのか?
このまま何もしないでいいのか?
……いや、ダメだろ。
人間として。
ぼくは自分のトレイを手にし、急いで食器を下げると彼のもとに走った。
突然走ってきたぼくの姿に彼はぎょっとしている。
「あのっ」
「はい。なんすか?」
「バッグの中、財布あります?」
「財布? なんで? なんなんすか?」
そう言いながらも彼は自分のバッグの中をがさごそと探る。
さて、次は何て言おうか。
「ありますけど?」
「えぇっ」
「ほら」
彼はバッグの中から黒い財布を取り出して、ぼくの前に突き出した。
「なんなんすか、一体?」
「え、なんで? あ、いや、何でもないです。すみません。勘違いでした」
「はあ」
不審な目でぼくをちらっと見て、納得いかなそうに溜息をつくと、彼はそのまま立ち去った。
納得いかないのはこっちだ。
確かにさっきあの男は財布を手にしていた。
なのに、なんで今、バッグに入っているんだ?
幻覚?
こんな真昼間から?
なに? なんなの?
どうなってるの?
しばらく立ちつくしていると、周りから変な眼で見られていることに気が付き、慌てて近くの椅子に座る。
頭で状況を整理しようとするが、当然ながらまとまらない。
ただただ混乱するばかりである。
男の手にあった財布は何なのか?
ただの見間違いだったのか?
たくさんの疑問符が頭の上に散乱している。
ふと時計を見ると、もう結構な時間が経過している。
あ、そろそろ行かなきゃ。
混乱する頭をひきずりながら、ぼくはフードコートを後にした。
面接会場である会社まで、さっきのことが頭を支配し、昨日まで練習していたことは遥か遠くに追いやられてしまっていた。
こんな状態で、ちゃんと面接できるのだろうか。
というか、マジであんな光景見なければよかったよ!
待合室の椅子に腰掛け、とりあえずバッグから手帳を取り出し、メモしていたこと見直す。
自己PR、志望動機、会社理念などなど。
目は字を追っているのだが、中身は全然頭の中に滞在してくれない。
こりゃもう今回は、だめかな……。
自分の名前が呼ばれ、面接室に入る。
多少うつむいたまま、自分の名前を名乗る。
そして目をあげた瞬間、思わず「え」と口にしていた。
真ん中にいる面接官は不思議そうな顔でこちらを見上げ「どうかしましたか?」と尋ねてくる。
ぼくは「え? あ、いやすみません」と謝りながら頭を振った。
「では、どうぞお掛けください」
そう促され、パイプ椅子に座る。
面接官は三人。
恐らくこの会社のお偉いさんなのだろう。
でも、右側の人って……。
見間違い、かなぁ。
グレーのスーツを着て、ノンフレームのメガネをかけたおじさんが、にこにこしながらこちらを見ている。
質問はもっぱら真ん中の人がしてきた。
ほとんどが想定していた質問だったので、反射的にそれに答えていく。練習の賜物だった。
そつなく答えていく自分に口に、我ながらびっくりだ。
一通りの質問が終わり、今まで黙っていた右側の面接官が口を開いた。
「もし、目の前で犯罪行為が行われたら、あなたはどうしますか?」
「え?」
想定外の質問だ。
「どうします? 見て見ぬふりですか?」
尚も男は聞いてくる。
「いえ、何か行動を起こすと思います」
「何かとは? その行為を止めたりですか?」
「いえ。わたしは気が弱いので、そういうことはできないかもしれません。ただ、警察に通報したり、周りの助けを呼んだり、小さなことかもしれませんが、自分の出来ることをしたいと思います」
「なるほど。分かりました。結構です」
面接官は微笑みながらそう言った。
「何か質問はありますか?」
彼がそう言葉を続けたので、ぼくは思わずさっきのことを尋ねようとした。
が、もし違っていたら失礼だし、聞いたところでどうなるものでもないなと思い、開きかけた口を閉じた。
「何もないのでしたら、これで面接は終了です。おつかされまでした」
「あ、はい。ありがとうございます」
席を立ち、頭を下げる。
部屋を出ようとすると「あ、そういえば」と後ろから声をかけられた。
振り返ると、グレーのスーツの面接官が「うどん、おいしかったですか?」と聞いてきた。
その手には、ぼくがあのとき見た茶色の財布がある。
驚いて声も出なかったぼくは、ただ何度も顎を引くだけで精いっぱいだった。
「そうですか。それはよかった。では後日結果をお伝えします。今日はお疲れ様でした」
それに対し、なんとか「ありがとうございます」と言葉をしぼりだし、ぼくは部屋を後にした。
え?
えーーーーーーーー?
心の中で叫び、早足で建物を出る。
なにがどうなってんだ?

後日、ぼくはその会社に採用された。
そしてあのときの面接官がとてもいたずら好きで、手品が趣味であるということも知った。
趣味の悪い面接だったが、何はともあれ受かってよかった。
でも、もしあのとき、ぼくが何もしなかったら、果たしてこの会社に受かることはできたのだろうか。
それは永遠の謎である。


ミッドナイトゴーストツアー

「おお、ここか」
薄汚れたグレーの壁の二階建てのアパート。
築十年くらいだろうか。あまり新しいとはいえないデザインだ。側面の壁には黒の明朝体で『極楽荘』と大きく書いてある。
聡からもらった地図が正しいならば、ここの202号室で間違いない。
ほこりをかぶった手すりには触れず、階段を上がる。
もう少しで暮れようかという夕焼けが、そのほこりさえもきらきらと輝かせる。
細いボールペンのような字で書かれた『松田』という表札。どうやらここのようだ。
チャイムを押すとピンポーンという音が部屋の中に鳴り響くのを壁越しにわかった。
向こうから人が歩いてくる気配があり、ガチャガチャと鍵を開ける音。そして扉が開く。
「よう。来たか」
ボサボサの髪の毛に、痩せた身体。そして黒のセルフレームの眼鏡。相変わらずファッションには興味がないようだ。
「まあ、あがってよ」
「ああ。ここで帰れといわれても、おれはあがるだろうな」
玄関に小さな靴がある。
いくら痩せているからといって、どう考えても聡の靴ではない。
「誰か来てるのか?」
「ん? ああ。ここのアパートの子どもがよく来るんだ」
「小学生?」
「たぶん」
「お前は勉三さんか」
「は?」
「いや、なんでもない」
靴を脱いで、部屋に入ると、小学五~六年生かと思われる男の子がゲームをしている。少し丸っこい感じで、髪はスポーツ刈り。おれの方をチラッと見ると「チワース」と軽く頭をさげた。
これだから最近のガキは。
ちゃんと挨拶くらいしやがれ。
「彼、いつもウチにゲームしに来るんだ」
「ゲームには事欠かないだろうからな」
部屋を見回すと、六帖くらいの部屋をうめつくさんばかりにゲームが陳列されている。ジャンル問わず、アクションからRPG、そして大作からマイナーまで、なんでもござれだ。棚の上には、こまごまとしたフィギュアが並べられている。
「どうぞ座ってよ」
聡はおれの前にクッションを差し出した。「ああ」と答えてそれに座る。大量にゲームがある割に、部屋は片付いていて、いわゆる男の一人暮らしの汚さとは無縁のようだ。
小さなテーブルをはさんで、聡と向かい合う。おれは土産代わりに持ってきた缶ビールをテーブルの上に置いた。
ガサッという音に反応して、ガキがこっちを振り返る。にやにやした顔で「それなに?」と聞いてくる。
「子どもには関係ない」
「ちぇっ。ビールか。あんな苦いもの、なんで大人は飲むんだろうね」と言って、再びテレビの画面に戻った。苦いと分かるということは、飲んだことがあるということだな。
「で。話というのは?」
「ああ。そうそう克也から面白い話を聞いたんだ」
「克也から?」
嫌な予感がする。
克也はおれたちの共通の友人だが、時折突拍子もないことを言い出す。マンションの屋上でUFOを呼び出そうとか、隣県の沼にナントカシーという未確認生物がいるらしいから見に行こうとか。子どもがそのまま大学生になったような男だ。
「隣の浄土町に心霊スポットがあるんだって」
「心霊スポット? どうせただの噂話だろ」
「いやいやいやいや。すごいらしいよ」
「どうすごいんだよ?」
「見えるだけじゃなくて、触れるみたい」
「幽霊って透けてるんじゃないのか?」
「一般的なイメージはそうだけどね。でも、よくホラー映画とかで首絞めてきたりするじゃん。テレビから出てきたりしてさ」
「ああ、一時期話題になったな」
「そうそう」
「つうか、それって危なくないか?」
「まあ大丈夫じゃないの?」
こいつの『まあ大丈夫』というのは、今まで大概が大丈夫ではなかった。身に危険が及んだことも一度や二度ではない。なのに、なぜこんなに楽天的でいられるのだろうか。
「そこに行くのか」
「ピンポーン」
聡は楽しそうに表情を崩した。
まったくこの男は。
「断る」
きっぱりとその申し出を拒否する。
すると聡は理解できないといった顔で「え? なんで?」と聞いてくる。
「なんでも何も。別に行きたいとも思わんし」
「大丈夫だよぉ」
「その根拠は?」
「だって克也が行ってきたって」
「は? あいつ行ったのか」
「うん」
「それで?」
「ちゃんと触れたって興奮してたよー。すごいよねぇ」
「まじかよ」
なんでこいつらはそんなに幽霊に触られたいのだろうか。同じ触られるなら、若い女性の方がいい。
「あれ、お兄さん。もしかして怖いの?」
ガキがニヤニヤしながら、話にまざってくる。
「んなわけないだろう」
「じゃあ行ったらいいじゃん」
思わず顔をしかめる。なんだってんだ、このガキは。
「お前、名前は?」
「富田広康、11歳」
「年齢は聞いてない」
「サービスだよ、サービス」
「そんなサービスは結構だ」
「で、行くの行かないの?」
「行く気はない」
「えーっ」
そこで聡が大げさに声をあげた。
「行こうよ。面白そうじゃん」
懇願するような声で聡が言葉を続ける。
「そうそう。行くんだったらおれも連れてってよ。あそこの話は前から気になってたんだよねー」
いつの間にかゲームの電源を落としていたガキがしつこく食いついてくる。それに続けとばかりに聡も言葉をはさむ。
「ねえ、行こうよ」
「行こうよ行こうよー」
なんだ、こいつら。
息ぴったりじゃないか。
「お兄さん、退屈な日常にはもううんざりでしょ? ここらでちょっとした刺激が必要だって」
「おーおー、もっと言ってくれ、広康」
「平凡な毎日へのスパイスだと思って、行ってみましょうよ、ダンナ」
小学生とは思えないセリフだ。どこのポン引きだよ。
「黙れ、小僧」
静かに一喝すると、一瞬は静かになったものの、またあーだこーだ言い出した。このままではキリがなさそうだ。
「あー、うっさいうっさい。わかったよ。行けばいいんだろ、行けば」
「さすが、話がわかりますねぇ、社長」
「うんうん。やっぱりキミはやる男だと思っていたよ」
そのとき、聞きなれない電子音が鳴った。
「あ、電話だ」
広康はポケットからケータイを出した。最近は小学生までもケータイを持ってるのか、と変に感心した。
「飯だから、帰ってこいってさ」
電話を切った広康が立ち上がる。
壁にかかっている時計を見ると、もう六時半近かった。
「んで、いつ行くの?」
「まだわからん」
「行くとき絶対教えてよ。なんとか家ぬけだしてくるし」
「わかったわかった。わかったから早く帰れよ。ママに怒られるぞ」
「今どきの子どもはママなんて言わないよー、お兄さん」
イチイチ癪に障るガキだな。
「じゃ、帰るわ。またね、松田さん」
「ああ、じゃねー」
「それと。んー、まだ名前聞いてなかったよね?」
「ん? ああ。桂木時男だ」
「トキオっていうの? かっけー」
おおげさに大きな声で広康は感嘆した。
まったく子どもというのは感情がストレートだ。何歳からおれたちは周りの目を意識して、感情を操るようになるのだろう。
「じゃね、トキオー」
「呼び捨てにするな、小僧」
「はいはい。じゃ約束だからね。ではでは」
そういい残して広康が帰ると、部屋の中は一気に静かになった。台風一過といった様子だ。
「それで、いつ行くの?」
「早い方がいいだろう」
「今晩?」
「そうだな、せっかく来たんだし」
「じゃ後で広康くんに連絡しなきゃ」
「いや、やめとけ」
「へ? なんで? 約束したじゃん」
「あのなぁ。万が一だぞ、何かあったらご両親になんて説明するんだよ。勝手に連れ出して、とりつかれでもしたら、責任とれるのか?」
「とれないけど、でも」
「行ったこと言わなきゃわかんないだろう」
「うーん」
「あいつのことを思ってのことだぜ」
「わかった。わかったよぉ」
なんとか聡を納得させる。
まあ、本当は生理的に好かんからだけどな。
大人は汚いよ。

持ってきたビールを二人で空け、だいぶ夜も更けてきた。
そろそろ行こうかということになり、家を出る。
二人とも車を持っていないので、とりあえず電車で隣町まで行く。幽霊を見に行くときというのは、車が定番なのだろうが。
終電は、飲み屋帰りのサラリーマンなどで結構混んでいた。赤い顔をしたおっさんたちが、大きな声で管を巻いている。
ああいうふうにはなりたくない、と彼らも昔は思ったのだろうか。
二〇分くらいして、目的の駅に着く。
「で、どこなんだ、その場所って」
「浄土沼だよ」
「浄土沼? 沼なのか?」
「うん」
幽霊というからにはてっきりつぶれたホテルとか廃病院とかを想像していたのだが、沼とは。ずいぶんアウトドア志向だな。
「歩いていくのか?」
「結構あるからねえ。タクシー乗ろうか」
終電後の駅には赤い顔の男たちを送り届けるためのタクシーが列をなしている。
その中の一台に乗り込む。
「お客さん、どこまでですか?」
低いバリトンの通る声で、運転手がバックミラー越しにおれたちに尋ねた。
「浄土沼まで行きたいんですけど」
「わかりました」
そして、車は走り出した。
タクシーのライトや、ビルのネオンなどが少しずつ遠ざかっていく。夜の街の喧騒もだんだんと聞こえなくなっていった。
「お兄さん方、浄土沼にはどういったご用事で?」
「え? ああ……」
「見た感じ、釣りといった感じでもないですけど」
しまった。
釣竿でも持ってくるんだった。夜中に何も持たずに沼に行けば、そりゃ怪しまれるに違いない。おれが言葉を濁らせていると、聡が後を継いだ。
「いやね。昆虫の研究なんですよ。ぼくたち大学で虫について勉強しているんです」
「ほお。そうなんですか。どういった類のものを?」
「水辺に棲む虫たちの生態系を調べています。なんでも浄土沼はちょっと変わった生態系を持っているみたいなんですよ」
「なるほど、それは初耳ですなあ」
感心したように運転手は何度もうなずいた。
おれもスラスラ出てくる聡の嘘に感心した。
「いやね、わたしはてっきり」
そこで運転手はしまったといったふうに言葉を止めた。
「てっきり、なんですか?」
「え? は、ははは。なんでもないですよ」
ごまかしているのは明白だ。
「運転手さん、途中で話やめられたら続き気になりますよぉ」
「でもですねえ」
おれと聡はお互いに顔を見合わせた。
どうやらまんざら嘘でもなさそうだ。
おれはカマをかけてみることにした。
「もしかして、幽霊が出るとか?」
「えぇっ? ご存知なんですか?」
ビンゴ。
「先輩から聞いたんですよ。ぼくたちを怖がらせるために言った作り話だと思ったんですけど、本当なんですか?」
聡は抑えきれない好奇心をむき出しにして、目を輝かせている。
「わたしも実際に見たわけではないのですが、そういう話は仲間から何度か耳にしたことがあります」
運転手はさきほど躊躇った続きを話し出した。
「ただ、人によって内容が多少違っていて、髪の長い女の霊だとか、赤い服を着た女の子だとか、いろんなパターンがあるようです」
車はどんどん人里から離れていき、周りには少しの民家と田んぼしかなくなっていた。
「それが沼の向こうに見えたかと思うと、すーっとこちらに近づいてくるのだとか」
「水の上を通ってですか?」
「ええ。ですからみな驚いて、すぐに逃げ帰ってしまうようです」
「その中で、幽霊に触られたという人は?」
「触られた、ですか? いえ、そういう話は聞いたことがありませんが」
「そうですか」
触られたという話はないようだが、どうやら出るらしいというのは俄然真実味がでてきた。
「これから調査に行くのに、すみませんね。こんな話しちゃって」
「いえいえ、いいですよ。ぼくたち幽霊とか全然信じてないんで」
しれっとした顔で聡が答える。そしておれの方を見て、舌をだした。まったく子どもみたいなやつだ。
「そろそろ着きますよ」
周りはたくさんの木々が覆いかぶさっていて、闇をさらに濃くしている。
なるほど。
確かにおあつらえ向きのシチュエーションだ。
「ここから先は車だとちょっと大変なんで、この辺でいいですか?」
「ええ。ありがとうございます」
料金を支払い、車を降りる。
森の中なので、もちろん街灯などはなく、車がいなくなると、辺りは深い闇となった。
聡はナップザックから懐中電灯を二つ取り出し、その小さい方をおれに手渡した。
真っ黒な中に小さな白い光がともる。
ほんの小さな光だが、今のおれたちにはとても頼もしい光だ。
時折、風で林がざざざぁと鳴く。
道とも言えないような獣道をおれたちは歩き始めた。
「いやあ、これは雰囲気あるねえ」
「……まあな」
ハイキングを楽しむように聡が声をかけてくる。
まったく、聡といい克也といい、こいつらには恐怖という感覚がすっぽりと欠落しているに違いない。でなければ、好き好んでこんな闇の森の中を歩くわけがない。
口では強がっていたものの、おれは多少怖くなってきていた。
ケータイを見ると、電波は普通に三本立っている。こんな山奥まで電波が届いているとは。
しばらく歩いていると、ようやく「浄土沼 この先二〇〇メートル」と書かれた標識に出合った。
「もう少しだねえ。いるかな、いるかなぁ」
返事をするのもうんざりだった。
闇の中を歩くというのは、普段以上に疲労を感じる行為だとおれは痛感していた。
「あれ?」
ふと聡が立ち止まった。
突然だったので、思わずぶつかりそうになる。
「どうした?」
「ほら、あそこ」
聡は懐中電灯の光で、向こう側を指した。
「誰かいない?」
そのとき、『ピピピピピ』と急に電子音が鳴り響いた。おれは思わず「おわ」と間抜けな声をあげ、腰が抜けそうになった。だがなんとかその一歩手前で踏みとどまる。
「あ、電話だ」
普段通りのリアクションで聡は電話に出た。いつかやつの心臓を見てみたいものだ。きっと毛むくじゃらに違いない。
「はーい。もしもし。え? ああ。うん。えーと」
電話で話しているため、聡の懐中電灯の向きが変わり、先ほどの人影らしきものは見えなくなった。
おれはゆっくりと自分の懐中電灯をさっきやつが指した方に向けた。
そして、今度は腰を抜かして、その場にへたり込んだ。
懐中電灯はめちゃくちゃな方向を指しながら、地面に転がった。
人影はさっきよりも近づいていた。
明らかにこちらを目指している。
「え? ほんと?」
聡は依然として話を続けている。
どういう神経をしているんだ。
「お、おい。聡」
震えて声にならず、なんとか力をこめてそう言った。
しかし、でかい声で話し続けるやつの耳には届かない。それよりもその場で座り込んでいるおれに気づきそうなものだが。
こいつが一つのことに集中すると周りが見えなくなるタイプだったことを思い出した。
突然、聡がさっきの人影の方に明かりを向ける。そして「ああ」と大きな声をあげ、手を振った。
そうすると向こうから「やっぱりねー」と聞き覚えがある声がした。
「大人は汚いよ」
広康がニヤニヤしながら、すぐ側に立っている。
「あれ? トキオなんで座ってるの?」
「え? あ、ああ。疲れたから休んでたんだ」
おれは精一杯の虚勢を張る。
呼び捨てにするなと言う余裕はとてもなかった。

どうやら話を聞いた広康は待ってるのももどかしく、ひとりで来たようだ。
「どうも教えてくれないような気がしてさー。特にトキオが」
「呼び捨てにするな。たまたま連絡するのを忘れただけだ」
「忘れた? またまた。だって今日話したばっかでしょぉ」
広康が混ざることで、だいぶ恐怖が和らいだ。どうもこいつも恐怖という感情は持ち合わせていないようだ。
「あ、あったよ」
聡が懐中電灯を前方に向ける。
ゆらゆらとした黒い水面が光に照らされた。
これが浄土沼か。
「結構大きいんだな」
「だね」
「どう? 出そうな感じじゃない?」
妙にうれしそうな様子で広康がおれたちを見上げた。
そばまでやってくると、水独特の匂いが微かに鼻腔をくすぐった。
「で、どこにしようか?」
「なにが?」
「このまま歩いていてもしょうがないでしょ? だからどこかに陣取って座ろうよ」
「ああ」
確かにこんなところを一晩中歩いていろと言われたら拷問に近い。
「水面を来るわけだから、やはり水に近い方がいいだろうな」
「でも、あんまり近すぎると、ぬかるんでるんじゃないかなぁ」
「ああ」
「どこでもいいから早く座ろうよー。疲れたー」
ガヤガヤと騒ぎながら、三人でベストポジションを探す。
「あ、ここいいんじゃない?」
あまり草が生い茂っておらず、遠くまで見渡せそうな場所を聡が見つけた。
「そうだな。ここならどこに出現しても確認できそうだ」
「いいね、いいね」
「よし、じゃあ」と言いながら、聡がリュックから敷物を取り出した。光を照らすと、赤とか黄色とかのカラフルな縞模様のやつだった。
「なんだか遠足みたいだな」
「うわ、なつかしー」
小学生の広康が懐かしいというのだから、よほどのものなのだろう。
できるだけぬかるんでないところを選び、そこに三人で腰を下ろす。
「さ、これで準備万端だ」
「早く出ろ出ろ」
二人は相撲の升席にでも座っているような感じだ。
目をキラキラさせながら、沼に熱い視線を送っている。
やがて一時間が経過した。
一向にそれらしい気配はない。
初めのうちこそ、わーわーうるさかった広康は、早くも眠りについてしまった。時折、聡もガクッガクッと首が前に倒れかけている。
今日は出ないのだろうか。
大きくあくびをして、ぼんやりとそんなことを考えていた。いくら幽霊だからといって、年中無休ということもあるまい。たまには休むこともあるだろう。
すると突然、広康が「ぎゃっ」と言って、起き上がった。急なことだったので、おれは思わず「おわふ」と意味もない声をあげてしまった。
「どうしたのぉ?」
大きな声に起こされた聡が眠そうに尋ねる。広康は起きているのか寝ているのかわからないような虚ろな表情で「なんかに刺された」と言って、また眠りについた。
なんなんだ、こいつは。
おれは見たことのない生き物を見るような目で、広康の顔を凝視した。
そこで、ふと右腕にチクリとした感触がある。咄嗟に左手で叩く。確かに蚊がいるようだ。こんな水辺なのだから、当たり前と言えば当たり前だろう。
思い出したように聡もぴしゃりと叩いている。
静寂の中、おれたちのぴしゃりぴしゃりというだけがこだます。
そのまま特にイベントが発生することもないまま、だんだんと空が明るくなってきた。
「来て損した」
大きく伸びをしながら、おれはぼやいた。
「まあ、こういうこともあるよ」
聡は軽く笑いながら、頭をかいた。
さすがに少しがっかりしているようだ。
「そろそろ帰るか」
「そうだね」
こんな明るさなら幽霊も恥ずかしがって出てこないだろう。
すやすやと眠る広康の頭を軽くこづく。
結果として、こいつに二度も驚かされたことだけが、今回のイベントだった。
「ん? う、はあああぁ」
ゆっくりと両手を高くあげ、広康が目を覚ます。
「ふあぁ。今、何時?」
「ん。五時を回ったところだな」
眠そうに目をこすりながら、広康は大きくあくびをした。
「で、結局出た?」
おれたちの顔を交互に見比べるが、おれたちは黙って首を横に振るだけだった。
「そっか。なーんだ」
「そろそろ帰るよ。トキオ、そっち持って。これ片付けるから」
「おう」
聡の指示に従い、シートを片付ける。
徹夜独特の倦怠感が身体中にまとわりつく。よくもまあこんなことを一晩中もしていたものだ。
そのまま三人で口数も少なく、帰途についた。
早朝のせいか、なかなかタクシーが通りかからず、帰り道も大変だった。


空は嫌味なくらいに快晴で、日差しが容赦なく身体を照りつける。
もう七時になろうかという時間に、ようやく自分の家まで帰ってくることができた。
今日は金曜だから、広康は今頃学校に行ってるのだろう。その点、大学生は楽なものだ。今日は授業は午後からだった。
とりあえずシャワーを浴びて、一眠りしようかと思っていると、携帯が鳴った。
表示を見ると「松田 聡」とあるので、とりあえず出る。
「もしもし。トキオ?」
「ああ、どうした?」
「ビックリしたよっ」
「だからなんだよ、そんなに興奮して」
「幽霊っ」
「幽霊?」
「そうそうそう。昨日、っていうか今日の?」
「何も出なかったじゃないか」
「違うんだ。出てたんだよ。出てたのっ!」
「はあ? おいおい。まさか広康が幽霊だったとか言うんじゃないだろうな?」
「そんなわけないでしょ。彼は二つ隣にちゃんと住んでるよ」
「じゃあ、何だって言うんだよ」
「腕見てよ、腕」
「腕? どっちの?」
「どっちでもいいから早く」
何を言っているのかわからなかったが、大人しく自分の腕を見てみる。ちょうどシャワーを浴びようと思って、上は脱いでいたので、すぐに何もないことが確認できた。
「何もねえよ」
「でしょっ?」
何言ってんだ、こいつは?
「まだわかんないの? 昨日のこと思い出してよ」
「昨日のこと? 夜に浄土沼に行って、そこに広康がいて、それで三人で無駄な時間を過ごした」
「まあそうなんだけどね。夜中に広康くんが起きたでしょ?」
「ああ『なんかに刺された』とか言って急に起きたな」
ん?
おれはもう一度、両腕をじっくりと見た。
「あれ?」
そのまま両脚まで見てみるが、何もない。
「これがそうだって言うのか?」
「そう!」
「いやはや、なんとも」
確かに幽霊に触られたというわけか。
それにしても……。
全然怖くないな、蚊の幽霊なんて。


彼の戦慄

人通りの多い駅の近くの牛丼屋と、少し郊外にある牛丼屋。
忙しいのはどっちか。
そんなの当然駅前だと思うかもしれない。
けれども郊外は郊外なりの忙しさがあるのだ。
牧野泰斗はバイト初日にそのことを痛感させられた。街外れなんだから、どうせ暇だろうと高をくくっていたのが大間違いだ。
駅前の場合客は一人の場合が多い。駅から吐き出されたサラリーマンや、予備校帰りの浪人生などが歩いて店に入ってくる。
それに対し郊外の場合、客が徒歩でくることはまずない。だいたいが車だ。たとえそれまで暇だったとしても、四人乗った車が二台も来れば、一気に八人の来店になる。
料理によっては一度に四人前くらいしか作れないので、八人同時に注文を出されると、さばききれなくなる。それで一瞬にして忙しくなるというわけだ。
窓の外からやってくる夫婦を見ながら、泰斗はまたため息をついた。
「いらっしゃいませー」
心とは裏腹に身に染み付いた営業ボイスが口から飛び出す。
入ってきた四十代くらいの夫婦は、何やら深刻そうな顔をして食券を買っている。
今のところ、料理は全部出せているので、二人くらいなら何の問題もない。
カウンターについた二人から食券を預かる。今日はもうバイトの子が二人、厨房に入っており、手持ち無沙汰だった泰斗は何の気なしに入ってきた夫婦の会話を聞いていた。
「どうしようかしら」
女性がため息をつきながら男に尋ねるが、男は黙ったまま水を飲んだ。
「ねえ、あなた」
「ああ」
それ以上聞いてくれるなという表情で男は女の質問をさえぎった。
そしてまた女性はため息をつく。
一体何があったのだろう。
気になって耳をそばだてていたが、入り口のチャイムの音が聞こえたので反射的に「いらっしゃいませー」と声を出した。
入ってきた男を見てギョッとした。
真っ青な髪に細いサングラス。もう春も半ばだというのに全身を包む黒い皮のコート。どう考えてもお友達にはなりたくないタイプだ。全身から怪しさが満ち溢れている。
それでも客には変わりないので、とりあえず食券を取りに行く。男はこちらの方を一瞥もせず、黙ってテーブル席についている。声をかけるのが躊躇われたので、いつもの注文の確認をせずに、食券を受け取る。
一体、何者なのだろう。
厨房に戻ると、後輩の大学生が「またか」と心底嫌そうにつぶやいた。
「知ってるの?」と尋ねると、彼は苦虫をかみつぶしたような顔をする。
「ええ。先週も来たんです。大変だったすよ」
「大変って何が?」
「しょうがの箱を倒すわ、肉が少ないと大声で怒鳴り散らすわ」
「まじ?」
「まじっすよ。ほんともう勘弁してくれって感じで」
「うげ」
厨房からちらりとのぞいてみると、今のところ男は不審な行動はしていない。
ただ黙って座っているだけだ。
「先輩、並と温玉、できたんでお願いします」
「え、おれが?」
「この時間担当ですよね」
「そうだけど」
「頼みますよ。おれいやですもん」
「おれだっていやだよ、そんなの」
「マジお願いしますって」
「やだよぉ」
お互い譲り合ったものの、こうしている間に料理が冷めてしまったら、それはそれで問題になりそうだ。なので、しぶしぶ泰斗が行くことになった。厨房を後にする彼に向かって、後輩の男は「先輩、ガンバっ」と体育会系女子高生みたいに声をかけた。
近づくにつれ、背中に嫌な汗がにじむ。
無事に済むのだろうか。
男はさっきの状態から微動だにせず、じっと座っている。
「牛丼並盛りと、温泉卵お待たせいたしました」
手が震えないように注意しながら、慎重にどんぶりをテーブルに置く。
料理を前にしても相変わらず男は動かない。
「どうぞごゆっくりお過ごしください」
心にもないセリフを口にしながら、その場を後にしようとすると「おい」と声をかけられた。
げ。
一瞬心臓が飛び上がる。
まじかよ。
身体中の血が一気に引いていく。
「な、なんでございましょう?」
無理やりに笑顔をはりつけ、魔のテーブルに振り返る。
明らかにさっきまでの静の雰囲気から動の雰囲気へと男は変化していた。
「お前、これ、どこの温泉の卵だ」
「は?」
予想外の質問に戸惑う。
「どこの温泉で作った卵かって聞いてんだよ」
ここから一番近くにある温泉だって車で一時間はかかる。
「え、えーと。これは温泉卵のように半熟状になっているだけで、実際に温泉で作っているわけではないんですが……」
言い終わる前に男がテーブルを「バンッ」と大きく叩いた。
思わず口から「ひぃ」と声がもれる。
「お前、それじゃ詐欺だろうがっ!」
男は本気で激昂している。
なんで温玉のせいでこんな目に。
「も、申し訳ございませんっ」
とりあえず頭を下げるが、男の怒りは収まりそうにない。だいたいこんな理不尽な怒り方をする男にまともな対応が通じるとは思えなかった。
そのとき入り口のチャイムが鳴ったが、さすがにこのときばかりは、いつもの営業ワードも口から出てこなかった。代わりに助けを求めるように周りを見渡すが、誰もこちらを見てくれない。店内は七人客がいたが、誰も自分の姿など見えないかのようにごはんをかっこんでいる。見知らぬ他人の危機よりも、目の前の丼を取るとは。日本ももうだめだな。
「お前、ふざけてんのかっ」
どんどんヒートアップしていく男に反比例するように、泰斗の体温は下がっていった。この男はどう考えてもまともではない。頭の中で「ヤバイヤバイヤバイ」と連呼するが一向に助けはこない。
孤独。
今年で二十三になる泰斗は思わず泣きそうになった。
そんなことは気にする素振りも見せず、さらに男は怒りまくり、またしても「バンバンッ」と机を叩いた。その男に合わせて、泰斗の身体もびくびくと震える。
すると今度は、立ち上がって泰斗に詰め寄ってきた。逃げようとしたが、ちょうど端の席だったため、壁と男に挟まれるかたちになった。
「おれのこと、なめてんのか?」
なぜ注文通り料理を持ってきただけでこんなことになってしまったのか。
やはり後輩に変わってもらえばよかった。
今日休めばよかった。
てか、こんなバイトしなけりゃよかった。
次々と後悔が頭に浮かんでくる間に、頭に強い衝撃を感じた。
男が泰斗の襟元をつかんで強く壁に押し付けたのだ。
突然のことだったので、どう対処していいかわからず、されるがままに泰斗は壁に押し付けられた。手から伝わる男の怒りが、きつくしめられた襟を通して泰斗に流れ込んでくる。
孤独だ。
客席の誰もこっちを見ようともしない。
事なかれ主義の現代人たちは、道端に死体があったとしても、そのまま通り過ぎるのだろう。なんでこんな世の中になってしまったのか。
厨房に目をやるものの誰の姿も見えない。
殴られるのだろうか。
血は出るのか。
入院か。
まさかこのまま死ぬのか?
これも殉職ということになるのだろうか。
そのとき、向こう側から一人の中年の男性が、眉間にシワをよせながら、こっちに歩いてくるのが見えた。恐怖のあまり嗚咽をもらしていた泰斗の目から思わず涙が落ちる。つかつかとこっちに向かってくる男性がとても頼もしく見えた。まだまだ日本も捨てたものではない。
男性はすぐ近くまでくると怒気をはらんだ声でこう言った。
「兄ちゃん、早く食券取りにきてよっ」


銀のピアスと彼のタバコ

side A

「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」

苛立ちを隠そうともせずに、わたしは彼に問いかけた。
短くなったタバコを吸いながら、彼は素知らぬ顔をしている。ゆっくりと煙をくゆらせ、大きく息を吐く。その態度がまた癪に障る。こっちは真剣に聞いているのに。
落ちそうになった灰をどうしようかと、彼はキョロキョロしていたが、あいにく灰皿はない。これみよがしにため息をつきながら、わたしの携帯灰皿を差し出す。
「お、サンキュ」
灰を落とし、その口を閉じると、今度はコーヒーを手にした。どうやら一向にわたしの質問に答える気はないらしい。
「ちょっと、タカシっ」
思わず声が大きくなり、隣の席のおばさんや周りの人たちがこちらをちらりと見た。ばつが悪くなり、髪をかきあげる。
「だから、浮気なんてしてないっつうの」
もういい加減にしてくれといった感じで、タカシはため息をついた。
「だって、友だちが見たって。あんたが女の人と腕組んで歩いているの」
「はあ? 友だちって誰よ」
「そんなの今は関係ないでしょ」
面倒くさそうに彼はまた息を吐く。
「わたしたちまだ付き合って三ヶ月よ。どうしてもう浮気なんてしてるのよ」
「だから、してないって言ってるだろ。お前しかいないって」
さっきよりは幾分申し訳なさそうな顔をして、彼は頭をかいた。彼なりの反省の表れのようだが、一般的な標準から考えても、反省の度合いが低い。この男はろくに謝ることもできないのか。どうしてこんな男と付き合っているのだろう。
「なんだよ、信じられないのか?」
その質問に対し、黙ってうつむいていると、彼は再びタバコを一本取り出した。相変わらずのヘビースモーカーだ。そのせいでこんなにガリガリにやせているのだろうか。
「ちっ、しゃあねえな」
そう言いながら彼はポケットから小さな包みを出した。小さな金色の星がいくつも描かれた赤いラッピング袋。照れくさそうに、それをわたしの前に置いた。
「何これ?」
「んーとさ、おれら付き合って明日で三ヶ月だろ。だから記念にと思って」
予想外の奇襲だった。
さっきまで冷め切っていたわたしの感情が一気に熱くなる。我ながら単純な女。
「開けていい?」
「ああ、大したもんじゃないけどな」
わくわくしながら袋を開ける。心は早く早くと急かしたが、袋を破るのがもったいない気がして、慎重にテープをはがす。ゆっくりと急いで。
「わあ」
小さなシルバーのピアスだった。一センチくらいの銀のイルカが、かわいらしくかたどられている。一目で気に入り、目の前にかざす。まさか、こんなものをくれるなんて思いもしなかった。プレゼントなんて、絶対くれないタイプだと思ってたのに。
「ありがと」
さっきまでの不機嫌さはどこへやらで、わたしは彼に微笑みかけた。
「おう」
照れ隠しのためか、彼はそっぽを向いてタバコを吸っている。顔が少し赤く染まっているのがかわいくて、おかしかった。
にやにやしながら手の平で転がしていると、突然、近くの席に座っていた女の人がつかつかと、わたしたちのテーブルの側に歩いてきた。
髪の長い、目鼻立ちの整ったきれいな人だ。テーブルの横に立ったまま、わたしたちのことを見下ろしている。
タカシは逆側を見ていたので、すぐには気づかなかったのだが、さすがにすぐ側まで来ると、気配を感じて、彼女の方を向いた。
何が起こっているのか分からずに、呆然として、彼女を見上げていると、その唇から恐ろしい言葉がわたしに降りかかった。
「ねえ、タカシ。この女、誰?」
予期せぬ彼女の一言にわたしは凍りついた。

 

side B

「ねえ、ちゃんと聞いてる?」

サリナに声をかけられ、はっとして我に返る。
「ねえ?」
「あ、うん。ちゃんと聞いてるわよ。眼鏡の気弱な少年が、オレンジ色の服を着たガキ大将から、金銭を搾取される話よね」
「はぁ? 誰もそんなこと言ってないわよ」
「え、えぇ?」
呆れたようにサリナがため息をつく。
「もうっ。ちゃんと聞いてよ。彼氏が浮気してるかもって話」
「あああ。そっちのパターンね」
とってつけたような笑みを浮かべながら、ストローでコーヒーをかき混ぜる。汗のかいたグラスの中で、氷同士がぶつかりあい、涼しげな音色を奏でる。その音でいくらから平静さを取り戻す。間違いなく、あいつのせいでわたしは冷静さを失っている。ちっ、いまいましい。
「どうも別の女と付き合ってるみたいなのよね。女と腕組んで歩いてたのを友だちが見たって言ってたし」
「人違いじゃないの?」
「だって一度や二度じゃないのよ」
いらいらしながら、彼女はストローの袋をくしゃくしゃに丸めた。こんなとき、わたしはなんて言ってあげればいいのだろうか。下手なことを言うと、火に油を注ぐことになりかねない。まったく女友だちというのは神経を使う。彼氏という種族はきっとわたしの何倍も気を遣っているのだろう。そう思うと自然と尊敬の念がわいた。なりたくはないけど。
「それだけ目撃情報があるんなら、浮気してるんじゃないの?」
「うーん。必ずしもそうとは言えないじゃない?」
おいおい、どっちなんだよ。
「そうねぇ。サリナはどうしたいわけ?」
「ん、わたし? わたしは彼のことは好きなんだけど。でもねえ」
まったく面倒くさい。はっきりしろよ。
そんなことよりも、わたしにとってはあの男の方が問題なのだ。一体どうしてくれようか。効果的な方法を入念に考える。いくつものプランがメリーゴーランドのように頭の中をめぐる。
「でも、やっぱり別れた方がいいのかなぁ」
テーブルに肘をつきながら、サリナは独り言のようにつぶやく。てか、そうやって全部自分で決めるなら、わたしがいる意味あるのか?
「ねえ、どう思う?」
「んー、ゆっくり考えてみたら?」
「そうねえ。うーん」
ひらめいた!
サリナに適当に相槌をうちながら、いい考えがひらめいた。これならばあの男をぎゃふんと言わせられる。
「サリナ、ちょっとごめん」
「ん?」
「すぐ戻るから」
彼女の返事を聞く前に、わたしは席を立っていた。
そしてゆっくりと一組のカップルの元に歩いていく。これから起こる事態を考えるとちょっと気の毒に感じたが、自業自得なので勘弁してもらおう。
何も言わず黙ってテーブルの横に立つ。
少しぽっちゃりした、瞳の大きい女の子がわたしのことを見上げる。
心の中で「ごめんね」と謝る。けれどもできるだけ感情を押し殺し、一言。
「ねえ、タカシ。この女、誰?」
男は蒼白な表情でわたしを凝視している。わたしは無表情をキープしたまま男を見下ろす。
「やっぱり浮気してたんだ」
うつむいたまま女の子がつぶやく。その声は少し震えている。
突然のわたしの登場に、男は明らかにパニくりながら、わたしと女の子を交互に見つめている。
「え? え? 知らないってこんな女。てか、あんた誰?」
「もういいからそういうの」
「だって本当に知らないんだもん」
「今、はっきりとタカシって言ったじゃない。どうして知らない人が名前知ってるのよ」
「え? だけど、その」
女の子はすっと席を立った。
「サイテー」
吐き捨てるようにそう言い、彼女は赤く小さな袋を男に向かって投げつけた。
「ほ、ほんとに知らないんだよ。ねえ。おい、お前誰だよっ」
わたしはただ無表情に男を見下ろす。 目に涙を浮かべながら女の子は駆け出す。男は呆然としたまま彼女の背中を目で追っている。あらら、大変大変。
「追わなくていいの?」
にっこり笑って彼に声をかける。
びくっと身体を震わせると、彼は正気を取り戻し、わたしに一瞥をくれると、彼女の後を追って走り出した。
この哀れな男はこれから一体どうなるのだろう。
あなたがいけないのよ。
禁煙席でタバコを吸うから。
わたし、禁煙三ヶ月目だっていうのに。


チイサナサツイ

きっかけは些細なことだった。
すべてはある日の給食からはじまる。
「あれえ、ヨウコのプリンないんじゃない?」
みんなに聞こえるような大声を出しながら、体格のいい少年が辺りを見回す。短く刈り込んだ髪、切れ長の目、中学生と言っても通じるほどの背の高さ。クラスでこのマサタカに逆らえるものはいなかった。全てが思惑通り、小さな絶対王政である。
「なんでなんで。ちゃんと数あったでしょぉ」
髪を編んだ眼鏡の女の子がマサタカに続く。学級委員の彼女は事件が起こるたびに、その場を仕切ろうとする。みな辟易していたが、リーダーシップがあるのは確かで、大人しく従っていた。下手に逆らうと自分が痛い目にあうのも目に見えていた。
「あっ。ヨシユキなんで二つ食ってんの?」
その言葉にひとりの小柄な男の子が身体をびくっと振るわせた。そして泣き出しそうな表情を浮かべ、自分の机の上にあるプリンを凝視している。みなの視線が一斉にヨシユキのところに集まる。
「ほんとだ。なんでヨシユキ二つ持ってんだよ」
「そうよそうよ」
小学生というのは誰かが口火を切ると、堰を切ったようにみながまねをしだす。周りと同じようにという日本のお国柄をよく表している。口々に文句を小さな男の子にぶつけている。その一斉放射に少年は泣き出す寸前だった。
「こ、これはマサタカくんがあげるって」
騒ぎの真相を頼りなさげに打ち明けるのだが、周りにとってそれは弁明にしか聞こえない。むしろ火に油を注ぐ結果となった。
「はぁ? おれのせいにするのかよ」
怒りに満ちた表情でマサタカはヨシユキを睨んだ。ヨシユキは彼の目を見ることさえできず、ただうつむいて目をぎゅっと閉じている。
「ヨシユキ、人のせいにすんなよ」
「そうよ。卑怯よ」
「卑怯者」
「信じられない」
言葉の刃が次々とヨシユキを貫く。
無垢で残酷な子どもの特権。
それはあまりにも酷い。クラス中に卑怯コールが巻き上がり、ヨシユキは四面楚歌に追いやられた。もともとヨシユキは気が弱く、それほど仲のいい友だちもいなかった。誰も彼をかばうものはなく、ただひとり、標的になるがままだった。顔は紅潮し、唇がわずかに震える。そんな彼の様子をマサタカは冷笑を浮かべながら、面白そうに見ている。
「もういいよ、みんな。そんなにヨシユキのこといじめるなよ」
クラスのテンションがピークになったところで、マサタカが声をあげた。視線はヨシユキからマサタカに移る。
「ヨシユキだって悪気があったわけじゃないし」
全てを許すような偽りの笑みを浮かべ、マサタカ二度三度頷く。ヨシユキは何も言えず、ただただうつむいている。
「えらーい、マサタカくん」
「かっこいい」
「さすがね」
さっきまでの非難はどこへやら、今度は一斉に賞賛の声があがった。みんなヨシユキのことなどなかったかのように、マサタカに羨望の眼差しを向けた。
その日から、ヨシユキの存在はみなの中から消えた。

無視というのはもっとも陰湿ないじめといっていいだろう。
ヨシユキは空気のような存在になり、クラス中から徹底的に無視された。
プリントを渡すときに自分の番をとばされ後ろの人に回され、給食当番のときも誰も自分の分を用意してくれない。もともと友だちとあまり話すタイプではなかったこともあり、見事なまでに彼の透明人間化は進んだ。
一方マサタカは、その一件を機に、自分の権力をゆるぎないものとしていた。
はめられたとヨシユキが気づいたのはそれから数日後であった。
そのときにはもう遅く、ただただ毎日を透明のまま過ごした。最初のうちは泣きたくなることもあったが、だんだんそんな感覚も麻痺しだし、ついには学校にも行かなくなっていた。
いじめからの登校拒否。
文字にしてしまえば簡単なことだが、実際は陰湿で悪意に満ちており、被害者の命を左右しかねない問題だ。被害者以外には到底その恐ろしさは理解できるものではない。声高々に「学校に来よう」と呼びかけている人たちは実際に同じ目にあってみればいい。そうすれば決して同じことなど言えなくなるはずだ。彼らの痛みも分からずに、無責任な言動を飛ばすオトナたちは、加害者の一環と言っても過言ではない。
はじめのうちこそ義務的にクラスメイトが彼の家を訪れたが、その数もだんだんと減り、ついには誰も来なくなった。中には本当に彼のことをほとんど忘れてしまっている生徒もいた。
ヨシユキは一日の大半を家で過ごした。
テレビゲームに興じたり、インターネットの仮想現実の中に身をまかせた。ネットの中では匿名だとはいえ、自分の存在が確実に相手に認知されていて、わずかに心がやすらいだ。自分は確かに存在しているということを実感できたからだ。
明け方までゲームをし、昼間は寝ているというサイクルが続く。
何とかしなきゃと気は逸るのだが、結局何もできず、ぬるま湯の中につかっているだけだった。そんな自分が嫌になりつつあったが、それよりもマサタカのことを許せないという気持ちの方が強かった。今まで波風立たせず、みなの邪魔にならないように過ごしてきた自分が、どうしてこんな目にあわなきゃならないだろうと理不尽に思った。それまで人に対して怒りという感情を持つことがなかった彼だが、今度ばかりは怒りを通り越し、殺意という段階までたどりつつあった。
いつかマサタカに復讐してやりたい。
負の感情は募るばかりだったが、生活のサイクルは依然として変わることがなかった。

「なら殺しちまえよ」

ふと誰かの声が聞こえた。
辺りを見回すと、自分が宙に浮いていることに気づいた。しかも星が一面に煌めく宇宙だ。ヨシユキは自分が夢を見ているのだと思った。そうでなければこの現象は説明できない。
「憎いんだったら、殺しちまえばいい」
さっきの声がまた聞こえる。キョロキョロと周りを見回すが、どこにも姿は見えない。夢だからこういうこともあるのだろうと自分を納得させていると、
「こっちだ、こっち。上を見ろよ」
と言う声がし、見上げるとそこには奇抜な格好に身を包んだ、小さい子ども(?)が浮いていた。全身黒ずくめで、フードのようなもので頭を覆っている。手には大きな鎌をもっていた。前に漫画で見た「死神」に似ているとヨシユキは思った。
「お前が殺してくれると、こっちも魂が手に入り好都合だ」
そう言ってククククと笑いながら子どもはフードをとった。青に近い透き通る白い肌。髪は鮮やかな銀髪である。一見して小学五年の自分よりももっと幼い。恐らく二年生か三年生くらいの身長だろう。だがその小さい身体からは言葉では言い表せないような、とてつもないチカラを感じる。妖気、殺気、邪気……。そういう類のものだろう。
「あの、キミは?」
勇気を振り絞って声をかけると、小さな子はニッと笑い、自分の目の高さまで降りてきた。手を伸ばせば届くところまで銀髪の子は降りてきた。ほんの十数センチのところまで顔を近づけてきて、ヨシユキをじっと見つめる。思わず目をそらしたくなったが、あまりにも圧倒されてしまい、それさえも叶わない。ふたりはしばし、見詰め合った。
「オレサマはネガルだ」
そのままの体勢で、小さな子が名乗った。
「あ、ぼ、ぼくの名は」
「タカミヤヨシユキ、十一歳、現在いじめに遭い引きこもり中」
ヨシユキの瞳を覗き込みながら、まるで資料を読むかのようにネガルが言った。ヨシユキは面食らって、一歩あとずさる。満足そうにネガルはにやっと笑った。笑顔だけ見れば、子どもといっても構わないが、身にまとっているオーラは人間のものとは思えない。それほどに禍々しく、黒いオーラが目に見えるようだった。
「それくらい言わずともわかる」
「は、はあ」
「それよりもだ」
言葉を区切り、一息ためる。ヨシユキはごくりと唾を飲み込んだ。
「な、なんでしょう」
「ナカモリマサタカのことを殺したいのであろう」
「え?」
「お前の負の感情がリミッターを超えておる」
「負の感情?」
「ああ。お前の場合は特に『殺意』がたまっておる。それを解消してやろうと、わざわざオレサマが来てやったわけだ」
「解消するって、どうやって?」
「決まっておろう。お前の望みを叶えてやるのだ」
「マサタカくんを、殺すってこと?」
当たり前じゃないかというふうに眉をあげながら、ネガルは首を縦に振る。
「それが、お前の望みだろ?」
あっさりとそう言われ、ヨシユキは言葉につまった。今までそれを願っていたとしても、こう言葉にされてしまうと、気が引けてしまうのも事実だった。殺してやりたいと思ってはいても、その方法までは考えたこともなかった。所詮、空想、妄想、ただの絵空事に過ぎない。
「でもどうやって?」
おずおずとネガルに尋ねる。わが意を得たりとばかりにネガルは笑みを浮かべた。
「方法はお前が考えずともよい。決してお前が疑われることもない。ただ殺してやりたいと思えば、オレサマが願いを叶えてやる。どうだ、本当に殺したいと思っているか?」
少し逡巡したのち、ヨシユキはコクリと首を縦に振った。
それほどまで追い詰められていたということもあるが、何よりここまできたら後戻りできないという思いの方が強かった。ここで意見を取りやめてしまえば、自分の命が危ないと思えた。そう思わせる何かが目の前の少年にはある。
「ふむ。では目を閉じよ。お前をこの世界から出してやる」
右手をヨシユキの前にかざすようにして、ネガルが言った。言われたとおり目を閉じると、だんだん意識が遠のいた。すぐに彼の意識は深い闇の中へ落ちて行った。深い、深い闇の中へ……。

窓から差す日差しを浴び、ヨシユキは目を覚ました。
どうやらカーテンを閉め忘れたらしく、まぶしいくらいの日光が部屋の中に容赦なく降り注いでいる。
「夢か」
ベッドの上で半身を起こすとそこにはいつもと変わらぬ日常があった。積み重ねられたマンガに、出しっぱなしになっているゲームソフト。食い散らかされたお菓子。どこにもおかしな点はない。
それにしても、今までのはただの夢だったのだろうか。
さっきまでのあまりにもリアルなやりとりが、まだはっきりと脳裏に焼きついている。普段ならば曖昧にしか覚えていることができない夢だが、今日ばかりは一語一句はっきり思い出せるほどにインパクトが強かった。決して夢とは思えない。だが、かといって本当にマサタカが死ぬのだろうか?
学校に行こう。
真相を知るためにはそれが一番確実だった。もし学校にマサタカが来ないようなことがあれば、もしかしているかもしれない。学校に来ているならば、夢だったんだとあきらめ、すぐに帰ってくればよい。
久しぶりの外の空気はとても新鮮に感じられた。今まで部屋にこもりっきりだったのだから無理もない。何年も通っている通学路でさえ、目新しい感じがする。鎖でつながれた大きな犬や、いつも散歩しているおばあさん。ひとつひとつを目で確認しながら、学校へと着く。
校門までたどり着くと、さすがに少し入るのがためらわれた。どんな顔をしてクラスのみんなに会えばいいのだろう。また無視されるのだろうか。それとも歓迎されるのだろうか。誰だ?って顔をされたらどうしよう。考え出すときりがなかったが、ここまで来て帰るのもなんだなと思い、ヨシユキは学校に足を踏み入れた。
階段を上がり、教室の前で一度立ち止まる。深呼吸をしてドアを開ける。みな少し驚いたような顔をしたが、特に声をかけてくるということもなく、ヨシユキは黙って席についた。何人かの女子がこそこそと話をしていて居心地が悪い。きっと自分のことを噂しているのだろう。
チャイムが鳴り、先生が教室に入ってくるとざわめきも収まった。いつもよりも深刻で、険しい顔だった。そんな先生の様子を悟ったのか、教室にも緊張感がピンとはりつめた。
「みんな、よく聞いてくれ。昨日の夜、マサタカ君が誰かに襲われたみたいなんだ」
教室がざわつく。ヨシユキは身体がカッと熱くなった。まさかそんな!
「突然後ろから刃物で刺されたようで、通りかかった人が見つけたときには、もう……」
水をうったように教室が静まる。だがそれも一瞬のことで一気に教室中が軽いパニック状態に陥る。昨日まで一緒に遊んでいた友達が何者かに殺された。そんなことを告げられては気が動転してもおかしくない。中には泣き出してしまっている女の子もいた。ヨシユキは心臓が止まりそうなほど驚いた。そして昨日見た少年の顔がはっきりと頭の中に浮かんだ。間違いない。あの話は本当だった。こんな偶然、あるわけがない。
「まだ犯人は捕まっていないようだから、みんなもくれぐれも注意してくれ。ひとりで帰るということもないようにな。それから」
先生が注意事項を述べているが、そんなことはヨシユキの耳には届いていなかった。
あまりにも衝撃的な事実。
マサタカが死んだ。
自分のせいで、マサタカが。
実際、何か手を下したわけではなかったが、ヨシユキはひどい罪悪感にさいなまれた。自分があんなことを望んだせいで、マサタカは命を失ってしまったのだ。殺してやりたいと思ってはいたが、いざ死んでしまうとその事態の重さに押しつぶされそうだった。
自分のせいで。
あんなこと言わなければ。
殺したいなんて、言わなければ。
死んで清々したなんてことは露ほども思えなかった。こんなことなら死ねなんて望むのではなかった。胸がはりさけそうになり、ヨシユキは教室を飛び出した。
なんで?
なんでこんなことに?
泣きながら走った。走ると涙が顔中に飛び散った。それを手で拭い、ヨシユキは走り続けた。
ぜえぜえと肩で息をしながら、自分の部屋に飛び込む。そしてそのままベッドの中へ倒れこんだ。

「どうだ、願いが叶った気分は」
聞いたことがある声が耳元でし、ヨシユキはゆっくりと顔をあげた。今度は宇宙空間などではなく、自分の部屋だった。銀髪の少年がベッドの上に座り、ヨシユキの方をにやにやと見下ろしている。
夢の世界の住人だと思った少年がベッドの上に座っており、ヨシユキは戸惑った。けれどもこれもまた夢かもしれない。ゆっくりと身体を起こし、少年の方をにらみつけた。
「ヤツが死んで清々しただろ?」
ネガルがフードの下で目を輝かせている。妖しく光る両の瞳。狡猾で残忍な死神。普段なら失神してもおかしくないような迫力だったが、興奮状態にあるヨシユキは正面からこの小さな死神に挑んだ。
「清々なんか、しないよ」
搾り出すようにそれだけ言うと、ネガルはおかしそうに笑い始めた。その様子をヨシユキは黙って見つめている。ひとしきり笑うと、ネガルはヨシユキの方に向き直った。
「殺そうと願ったのはお前だぞ。なにを今更後悔する?」
その問いに、ヨシユキは言葉をつまらせた。確かに死んで欲しいと思ったのは事実だ。
「お前がヤツの死を望んだから、オレサマはやつを殺した。願いを叶えてやったのだから感謝されてもおかしくなかろう。なのにお前のその目はなんだ?」
目を細め、ヨシユキの瞳を覗き込むようにしてネガルが言葉を続ける。
「お前がヤツの死を望まねば、ヤツは死ななかったのだ」
下唇を噛み、ネガルの言葉を浴び続ける。確かに彼の言葉は事実だった。ヨシユキの殺意がマサタカを殺したのだった。
「だいたいお前がこんなところでひとりで、ウジウジと籠もっているのがいけないのだぞ。なにか一言でも言い返せていたら事態は変わっていたかもしれぬ」
もし自分がただ言いなりになるのではなく、マサタカに言い返せていたら。
もしはっきりと自分の意見を主張できたなら。
もし自分で事態をなんとかしようとしていたら。
いくつもいくつも「もし」が浮かんでは消えていった。ひとつでも自分が行動を起こしていたら、マサタカは死ななかったかもしれない。
けれどももう遅いのだ。
「いろいろ考えているみたいだな」
その一言がヨシユキの意識を引き戻す。ネガルはさっきよりも穏やかな目でヨシユキを見ている。
「だけどもう遅いよ」
「そんなことはない」
「え?」
「お前がそう考えるのを待っていた」
「ど、どういうこと?」
「お前は今夢の中にいる」
「夢?」
「ああ。ちょうどオレサマに会ったときからだな。そのときからのことは全て夢だ。お前が学校に行ったのも、マサタカの死を聞いたのも、全て夢の出来事だ。実際にマサタカは死んではおらぬ」
「そんな!」
「今からお前は夢から覚める。そうすればまた元通りだ。今までのようにこの部屋に籠もり、ヤツに殺意を抱くか、自分で何か行動を起こすか、好きにしたらいい」
そういうとネガルは人差し指をヨシユキの前にかざした。三回その指を振ると、ヨシユキの意識はすぐに遠のいた。

窓から差す日差しを浴び、ヨシユキは目を覚ました。
時計を見るとまだ七時を回ったばかりだった。
時間が戻っている。いや、そうではなくネガルが言った通り、さっきまでのは夢に過ぎなかったのだろうか。どちらにしても学校には行かなければならない。
もしマサタカが学校にいたら、ぶん殴ってやろうとヨシユキは思った。
「ああ、これで今月のノルマは達成か。引きこもりの少年の殺意解消っと」
「お、ネガルじゃん」
「なんだ、お前か」
「なんだとはなんだ。こっちは一級天使サマだぞ」
「うっせえよ。すぐにオレサマが追い越してやるわ」
「ああ、無理無理。お前には天使(ANGEL)はつとまらないね」
「ふん。ネガル(NEGAL)の名に懸けてやってやるわ!」