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実習の果て

大学のときに教育実習に2回行っている。
1度目が3年生のときで(参照:実習地獄)、2度目は4年生のときに協力校、簡単に言うと公立小学校なのだが、その中で自宅から最も近いところに行った。これは協力校の中で最も近いということであり、実際は電車で40分ほどかかった。
去年が去年なだけに、またどんなエライ目に遭わされるかと思ったのだが、そんなことは全然なく、いささか拍子抜けするほどであった。
授業計画も1回で通るし、放課後残って、身を切るような反省会をすることもなかった。実際、わたしの担当の先生は5時過ぎると、だいたいすぐに帰っていた。
あー、これが普通の学校なのかと、去年の辛さが自然に思い出された。
わたしが担当したのは4年生だった。
みんなかわいくて、とてもよく懐いてくれた。だが、その中にひとり、なかなか厄介な男の子がいた。
授業中に大声で関係ないことを言ったり、他の生徒をたたいたり、かと思えば午前中ずっと寝ていたりと、絵に描いたような問題児だった。
先生が注意しても馬耳東風。
とにかく傍若無人なのだ。
子が子なら、親もさるもの、一筋縄ではいかないらしい。
さすがに見かねた先生が、電話してお母さんに何とかしてもらえないかお願いしたそうだ。けれども、全然直らない。
そしてまたお願いする。
直らない。
またお願い。
直らない。
そんなことが繰り返されたらしい。
ある日突然、母親が泣き出したそうだ。
「なんで、先生はそうやってうちの子ばっかり責めるんですか!」と言われたらしい。
えー……。
そういうことがあったため、もう母親の協力は仰げそうにもなく、今に至るらしい。
第三者の目から見ても、彼の行いはひどかった。かなりの気分屋で、機嫌がよければ騒ぐし、悪ければまともに会話もしない。間違いなく他の子にも嫌われていただろう。現に何度もその旨の話を他の子から聞かされていた。
この場合、一体どうすればいいのだろうか。
ひとりひとりを尊重するという建て前に則り、その子を自由にさせておくべきだろうか。
いや、そんなことはないだろう。
事実、その子ひとりによって、多くの他の子の権利が侵略されているに違いない。
直接注意してもだめ、母親は力になってくれない。そんな状況でどうやって改善していくのだろうか。
考えてみると、彼ももう成人しているはず。
いったいどんな大人になったのだろうか。


あるバイトの話

わたしは今の仕事以外の、仕事の経験というものがほとんどない。学生のころからバイトで始め、そのまま就職したのだ。
ただ一度、あるバイトをしたことがある。
某英語の試験の監督官である。
簡単に言えば、試験のときに前に座っていて、試験中に席の間を歩き回っている人である。
この仕事は求人をしているわけではなく、どうやら紹介でのみ、できるようだった。現にわたしも、知人の紹介で行っている。
もちろん連日試験があるわけではないので、日雇いである。
確か1日7000円くらいだった。
その他に弁当と飲み物、お菓子なども出る。
朝8時前から行って、3、4時くらいまでの勤務だった。
まず朝の会のようなものがあり、今日の仕事を言い渡される。その日、まずやることは、黒板に席順と注意事項を書いていくことだった。どの教室のどの机が、受験番号0000~0000というのを書いていく。ちなみにそのときの試験会場は女子校であった。
それが終わったら、あとしばらくは誘導である。教室の前に立って、場所を聞かれたら答える。そんなに頻繁に聞かれるわけでもないので、だいたい座って、同じバイトの人としゃべっている。初対面なので「今日は暑いですねぇ」「そうですねぇ」などと当たり障りもない会話をする。ちなみに、一緒に行った友人とは違う担当だった。
そして試験が近くなると、今度は監督官である。
机の上に出された受験票と、本人の顔を確認していき、携帯の電源が切られているかどうかを確認していく。
そういえば、ひとりの女性が携帯をつけたままだったので「電源を消してください」と言うと「音を消しているから大丈夫です」と答えられた。「いや、でも規則ですので」と言うと不承不承ながら従った。
というか、黒板に大きく注意事項として書いてあるので、なんであえて逆らってくるんだよ。携帯は時計として使ってはならないとあるだろう。やれやれ。
トラブルらしいトラブルはそれくらいで、今度は試験開始前に注意事項などを読み上げていく。そして、しばらくの沈黙後、試験開始。
いざ始まってしまうと、こちらの仕事はほとんどない。ただ机の間を歩き回ったり、窓から外の景色を見たり、本を読んだりしている。これがなかなか長く感じる。
そして試験が終わり、解答用紙を確認して、みんなが集まっているところへ。そこで余っているお菓子などをもらい、終了。
楽と言えば楽な仕事だった。
帰り道、一緒に来た友人に「今日もらった金でおいしいもの食おうぜ」と行ったのだが、果たしてその日、何を食ったんだっけ?


介護等体験

教員免許を取得するためには、介護等体験をしなければならない。
人の心の痛みのわかる教員、各人の価値観の相違を認められる心を持った教員の実現という題目のもと、数日間、社会福祉施設や特別支援学校などに行くのだ。
というわけで、わたしも社会福祉施設に行くことになった。
まず距離だが、原付で小一時間かかる。
友人と2人で、そこの担当になったのだが、いちいち待ち合わせるのも面倒ということで、彼はその期間、ずっとわたしの家に滞在した。
某有名地方都市なのだが、熊が出るという場所であった。実際に、ある朝の申し送りで「熊が出没したので、注意してください」ということがあり、ぎょっとした。職員の人は「○○と聞いて、都会だなと思って来たのに、ここだったからだまされた」と笑いながら言っていた。
とにかく、かなりの田舎だった。
そして、どういう施設かというと、知的な障害をもった人々が、自立を目指して様々な活動をするというところであった。ある程度、生活能力が身に付いたら、一人暮らしをするということだ。
もちろん普段そういう人とつながりがあるわけでもないので、なかなかに貴重な体験ではあった。
介護等体験という名目なので、わたしたちは介護の補助などをするのかと思いきや、実際は彼らと一緒に活動するということがほとんどであった。
たとえば、工場に行き、手作業で部品を分解するだとか、畑に行き、野菜を収穫するだとか、補助ではなく、まるっきり同じことをしていた。ちなみに野菜は結構な量をいただき、原付のハンドルにぶら下げて帰った。
そこで、なぜかある女の子(もしかすると自分よりも年上だったかもしれない)に気に入られてしまい、よくついてこられた。
あるときは、男子更衣室まで入ってこようするくらいで、「おっ、モテモテだねぇ」などとからかわれた。
その子は普通にコミュニケーションすることがほぼ不可能で、ちゃんとした言葉を発することができなかった。だいたいいつも「あぁ」とか「うぅ」とか意味をなさない言葉をしゃべっていた。
あるとき、何か気に入らないことがあり、突発的にガラス棚をたたき割ってしまった。
そのとき、ある職員の人が「だから、大学生なんかに任せられないのよ」的なことを言っていたのだが、こっちとしてはそこまで予測するのは無理だろうという感じだった。どこの世界にも外部者を嫌う人はいるもので、反論しても無駄だろうし、ただただ謝った。
さて、そんな数日間で、我々は何か得るものがあったのだろうか。
感想としては「とにかく疲れた」の一言に尽きる。


これ、何式?

まさかこんなことになるとは、思ってもいなかった。
今から数日前。
晴れて大学生となったわたしは、一人暮らしを始めた。
慣れぬ家事や料理に悪戦苦闘しつつも、これから始まる新しい生活に、明るい希望を抱いていた。
そして、いよいよ翌日は入学式だ。
わざわざ一人暮らしをするくらいだから、それなりに大学からは近い。けれども、歩いて行ける距離でもない。その上、途中、山を越えていかなければならないのだ。
なので、ほとんどの学生の通学手段は原付かバスであった。(中には自転車で通う剛の者も幾人か見られた)
わたしもいずれは原付で通おうと思っていたが、まだ届いておらず、さらには道順もよく分かっていなかったので、入学式はバスで行こうと考えていた。
当日、時間に余裕をもって家を出る。
7~8分も歩くと、バス停に着いた。
すでに列が出来ている。
それもそうだろう。この辺は学生街だし、入学式は全員参加だ。みんなが同じ時間に学校に向かうのだ。
最後尾に並ぶ。
ほとんどの人が真新しいスーツに身を包んでおり、どこか窮屈そうだ。
やがてバスが来る。
ここで恐ろしい事態に気づかされた。
バス停はここだけではない。
というか、ここのバス停は、より大学に近い。ということは、ここに来るまでに相当な数のバス停を通ってきている。どこのバス停にも学生が列をなしている。
そうなるとどういうことになるか?
バスは到着した時点で、すでに満員なのである。
よってここの列は短くならずに、より長くなっていく。何せ乗れるとしても1人か2人だ。
ダメだこりゃ。遅刻確定。
わたしの後ろにもどんどん列が続いている。
前に並んでいた人々にはもう焦りの色はなく、諦めの表情が目に見えて浮かんでいる。
こうして何台ものバスをやり過ごし、我々は盛大に遅刻して入学式会場に着いた。
遅刻なので、席につくこともできず、後ろに立つ。そして、そこには壁を覆い尽くす新入生の群れ。座席は3分の1ほどしか埋まっていない。
なんだこれ?
座っている人の大半は、自家用車で来た来賓で、バスで来た新入生は、ほぼみんな後ろに立たされている。
もはや何のための式か分かったものではない。
そしてよく分らないまま式は終わり、こうしてわたしの大学生活は幕を開けたのだった。


思い出のマーボー

大学時代のことである。
前述した「よ~い丼」の他に、よく利用していた店があった。
中華料理屋なのだが、そちらはさらにアパートから近く、歩いて1~2分のところにあった。
中国人の夫妻が営んでおり、店構えと内装はお世辞にも立派とは言えないものであったが、味はよかった。
特に食べていたのが、C定食で、マーボー豆腐と、ミニラーメンにライスがついて、750円くらいだった。かなりのボリュームがあるので、男子学生にはうってつけだった。
そしてまた、このマーボーが絶品であった。
それまで、マーボー豆腐などほとんど注文したことがなかったのだが、そこで旨さを知ってから、他の店でも食べるようになった。だが、現在に至っても、あのマーボーより旨いと感じるものには未だ出会ったことがない。似たような味はあるのだが、妙に甘かったりするのでどうも好きになれなかった。
普段からその店には、よく行っていたのだが、特に風邪などで体力が落ちた病み上がりのときは、不思議と食べたくなって、重い身体を引きずりながら食べにいったものだ。
友だちが遊びに来たとき、彼はもやし炒め定食を食べ、「こんなにうまいもやしは初めてだ!」と感嘆していた。だが、いかんせん、もやしばかり大量にあるので、終盤になるとさすがに飽きていた。
そこのご夫妻は、これぞ中国人の日本語、というような発音であった。なので、よく友だちがマネしていた。
特に「ひとつ」という発音が、「ひッとッツァォ」という日本語では表記できないような感じで印象的であった。
そういえば、小さい子どもがいたのだが、その男の子は、きれいな日本語の発音であった。これはやはりテレビや友だちの影響なのだろうか。
大学3年の夏、授業もほとんどなくなってきたので、実家から通うことになった。
これでこの店に来るのも最後かぁと幾分感慨深い思いで、マーボー豆腐定食を食べていた。すると店のおかみさんが、初めてわたしに話しかけてきた。
「いつも食べに来てくれてありがとうね。実は店が移ることになったので、ここはもうすぐ閉めることになったの。今までどうもね」
という内容の話だった。
これには驚いた。思わずわたしも、
「実はおれも、引っ越すことになったんですよ」と返した。
なんとも不思議な偶然であった。
それ以来、○○に移転したらしいという話は耳にしたのだが、その辺の地理には明るくなく、行ってみても見つけることはできなかった。今でもまだ、あの味は続いているのだろうか。
いつかまた、食べたいものだ。