カテゴリー : 所思

本当にそれ当たってますか

「あるあるネタ」というものがある。
「A型あるある」「長男あるある」などなどさまざまな「あるある」が日本にはあふれている。
そこには「A型の人は、これこれこういうことがあります」と類型化された情報が書いてある。
この情報は、読んだところで「へー」となるくらいのもので別段役には立たない。特に有益であるとか、知っていれば得をするということもないだろう。
ではなぜこんなに多くの日本人は「あるあるネタ」が大好きなのか。
これは実に日本人的な理由で、自分もそのタイプの一員であるということを確認したいためではないだろうか。
それを読むことで、「ああ、自分もこれと同じだ。仲間がいっぱいいる」と安心するのだろう。
また自分のことを知って欲しいという欲求が満たされるというのも理由のひとつなのかもしれない。
「ああ、これも当たってる」ということが、いくつも重なれば、自然と自分のことが理解されたような気がしてくるだろう。人に自分のことを理解していもらうというのは、多くの人が欲求としてもっているものだ。
しかし、少し冷静に考えれば分かる通り、あんな類型化はほとんど根拠がない。何となくそんな感じ、程度の理由だろう。
では、なぜあそこまで当たっていると感じるのか。
「バーナム効果」というものがある。
誰にでも当てはまるような内容が書いてある紙を対象に配り「これは○○による診断結果ですよ」などと言うと、ほとんどの人がよく当てはまると答え、「これは一般の人に当てはまることですよ」と言うと、ほとんどの人があまり当てはまるとは答えなかったという。
同じ内容を渡しているのにこんなにもリアクションが違うわけである。いかに人間が付加価値によって左右されているかがわかる。
また「ピグマリオン効果」というのもある。
こちらは、小さい頃から「あなたは~だから、~という性格のはず」と刷り込まれていると、だんだんとそのように振る舞うことになるというものだ。
日本では血液型占いはかなり一般的で、否定しようものならば、ムキになって反論されることもあるほどポピュラーなものである。そんな社会下で「A型は几帳面だ」などという刷り込みを頻繁にされているれば、当然影響を受ける人も出てくるだろう。
それが結果的に「血液型占いは当たる」という結論をねつ造している可能性も否定できない。
そう考えると「お前A型のくせに几帳面じゃないなんて変わってるな」という発言は何とも空虚で恐ろしいものではないだろうか。


今日も明日もヘルメット

あるあるネタでもよく話題になることだが、多くの田舎の中学校では、自転車に乗る際にヘルメットの着用が義務づけられている。
これは登下校に限ったことではなく、私用で乗る際にも適用される。もしノーヘルが発見された場合、同じ学校の生徒、または近隣の大人たちにより、すみやかに学校に密告され、後日それ相応の処罰を受ける。(しばらく自転車通学禁止など)
だが、このシステムいろいろと思うところがある。
そもそもヘルメットの意義を考えた場合、安全の確保が第一である。
人間にとって、頭部は非常に大事な部位だ。よって、危険な場所、例えば工事現場や戦場などで頭部を守るためにヘルメットを着用する。
自転車に乗る際の危険性を考えれば、車の交通量が多い方が、より危険性が高い。
そう考えると、明らかに都会の方が危険である。
田舎だと、道によっては車が1日に数台しか通らないようなところだってめずらしくはない。学校に行き来する際にほとんど車とすれ違わないことさえもあるだろう。
安全性を考慮した場合、より危険性が高い都会でこそヘルメットの着用を義務づけるべきなのだが、そのような中学校が都心部にあるというのは寡聞にして知らない。
だからこそ田舎を揶揄する言葉として、登下校の際のヘルメット着用がネタにされるのだろう。
さらに謎なのは、徒歩なのにヘルメットを着用して通う小学生である。
百歩ゆずって、自転車だと自分で転倒して頭部をうつ危険性もあるからヘルメットをかぶる、という考えもあるかもしれない。
しかし、歩いていて、転倒して、頭部をうって大きな怪我をする可能性はかなり低いといえよう。
もし、この可能性が高いとするならば全国的に小学生の登下校にヘルメットの着用を義務づけるべきである。
新1年生が黄色い帽子をかぶっているが、あれは頭部を守るというより、視認性を高める意味合いであろう。
より危険性の高い都心ではヘルメットを着用せず、田舎では着用が義務づけられる。
これは一体なぜなのか。
あらかじめ断っておくが、ここからは全くの個人的見解である。
理由は「金」ではないか。
全員がヘルメットを購入すればそれなりの金額が動く。しかもそれは毎年確実に入ってくる。あまり物資の流通量が多くない田舎にとっては、決して小さくない額だろう。
そのために「田舎でこそ」ヘルメットを購入するという意味がでてくるのではないのだろうか。
真実はどうなのだろう。


花粉症だった

 花粉症だった。
 こういうと、「え? 花粉症って治るの?」と聞かれる。
 それに対して「イエス」と答えよう。
 実際自分がそうなのだ。
 思い返してみると、小学生のときからすでに目がかゆくなってた。なんだかよくわからないかゆさに戸惑い、袋に入れた氷で目を冷やしていた。
 中学生のときは鼻水がひどかった。
 住んでいるところが田舎なもので、中総体の会場のすぐ後ろが森だった。ソフトテニスをやっていたわたしは、コートチェンジのたびに、後輩からティッシュをもらい鼻をかんだ。
 高校のころは、杉ではない別な花粉にやられていた。みんなが収まった頃になりだすので、なんとも周回遅れのような気分だった。
花粉という言葉が認知され、天気予報でも花粉情報が流されるようになったのはこの頃ではなかったか。
 果たして、どのようにしてわたしは花粉症を治したのか。
 これに対し、はっきした答えはない。
 なので「○○をやればいいですよ!」というアドバイスを期待された方にはここで謝っておこう。
 ただ、なんとなくあの時期に治ったとのでは?と考えられることがある。
 当時、食品添加物に警鐘を鳴らした本が、やたらと流行った。後に、それに対抗するような本もいろいろでた。
 わたしはそれの影響をもろに受けた。
 何か食べ物を買うときは原材料の欄をチェックし、極力悪いとされる添加物はとらないようにした。
 そういう生活を何ヶ月かしていたら、どうも体質が変わったようで、考えてみるとその辺りから目のかゆみがなくなった。
 つまりこれが花粉症改善の原因であったのではないかと考えられるのだ。
 そんな話は聞いたことがないのだが、ほかに思い当たる節がない。劇的に生活を変えた覚えもないし、食生活も当時とさほど変化ない。
 今では、花粉症の時期になっても目がかゆくなることもないし、そんなに鼻がひどくなることもない。(ただし鼻炎の気があって、年中くしゃみはでる)
 あの目の玉を取り出して洗いたくなるようなかゆさや、鼻が詰まって味が分からなくなる苦しみから脱出できたのは非常に喜ばしいことだ。
「今年から急に花粉症になりました」
というのがあるのだから、
「今年から急に花粉症治りました」
というのがあっても、さほどおかしくないだろう。
 ただ自分以外で後者の言葉は聞いたことないけども。


昨日勉強した?

「昨日勉強した?」
「えー、全然してない。した?」
「してなーい」
 だいがいどちらも嘘である。
 割と本気に、ほぼ徹夜で勉強していたとしても、だいたいの人が上のようなやりとりをしている。
 これはなぜなのだろうか。
 したならしたではっきりと、○時間した、といえばいいようなものである。
 だが、
「おれ、5時間勉強した」
「おれは7時間だ!」
 というやりとりは、まずお目にかかったことがない。
 たとえば「昨日、必死になってほぼ徹夜で勉強したんだ」と言ったとしよう。
 問題はその結果である。
 そのテストが100点なり、90点なりの高得点なら何も問題はない。勉強した甲斐があったね、というだけだ。
 これが40点とかだったら、話はまったく変わってくる。
 必死になって勉強して、それを公開した上で、低得点をとった場合、かなりのダメージが予想される。
「え、自分ってほんとは馬鹿なの?」
「こんな点数じゃ、あいつらに笑われる」
「勉強なんてしても仕方ない」
「世界なんて滅びろ」
 などなど、さまざまなネガティブ感情が襲いかかってくるだろう。自分のプライドも粉々に砕かれるかもしれない。
 一方、「全然勉強しなかったんだ」と言った場合は、さまざまな言い訳が立つ。
「やっぱ勉強しなきゃだめだ」「今度はしよう」「しなかったから、まぁ仕方ないか」などと言っておけば、とりあえずの面目は保てる。内心ではどんなにショックを受けていたとしても。
 すると必然的に「努力したことを表に出すのはリスキーだ」となる。なので、たとえ自分が努力していたとしても、それを表に出すことはなくなっていき、さらには「ドリョク、カッコワルイ」という中二的な発想が生まれてくる。
 やればできる子、という言葉をよく耳にする。そもそも、やればできるなんて当たり前のことだ。人一倍努力すれば、誰だって一人前以上にはなるだろう。
 自分が精一杯やって、結果につながらなかったとき、その虚しさは尋常ではない。プライドも傷つくだろう。
 人が目標を達成するのにあきらめるまでの平均トライ回数は1回未満という。
 つまり、やる前から諦めてしまっていることになる。
 これは何とももったいないことだ。
 失敗は恐ろしいことだが、それを避けてばかりいたら何も得られない。


コドモの家族

「小人は同じて和せず」という言葉がある。
大したことのない人物というのは、周りの意見にただ同調しているだけで、人と協調しているとは限らない、という意味だ。
日本人は特に周りに合わせたがる民族で、「周りに合わせないようにする」という行動すらも「合わせよう」とする。
たとえば中高生による「不良化」である。
髪を染めたり、眉をそったり、ピアスを開けたり、服をだらしなく着崩したり、という一連の行動である。
きちんとした格好をすべしという体制に対する反抗のようだが、たいがいこういう行動を起こす人物というのはひとりではない。
先輩であったり、友人であったり、何らかの集団を形成し、なされるものだ。
友人がしているから自分もする、というのは実に日本人らしい発想だ。
そうして形成された集団は仮想敵として、学校の教師や、他のクラスメイトを設定し、それらに反抗することで自分たちの仲を深めようとする。
それが彼らの「青春」なのだ。
決められたレールに従うのが嫌で非行化するというのは割とポピュラーで、昔からあることである。
学校をさぼったり、親に逆らったりしている彼らは、学校に居場所を作り、親に保護されて生きている。
「ガキ扱いするな!」と言いつつ、家に帰ってご飯を食べさせてもらっている。挙げ句の果てにはケータイの代金を払ってもらい、お小遣いまでもらっている。
学校が嫌ならやめればいい。
中学校は義務教育だが、高校は別にいかなくてもいい。
じゃやめるのかというと、ほとんどが嫌々ながらも行く。でも、普通に受けるのが嫌なのでわざわざ反抗する。
親がむかつくなら家も出て行けばいい。
自分で働いて、その金で暮らせばいいのだ。
でも、ほとんどが文句を言いながらも家にいる。でも、親の言うことは聞かずに、でかい口ばかりたたく。
さらに彼らはやたらと感情論を持ち出す。
たとえばこちらが論理立てて話をしてみても「うるせえ」「だまってろ」「関係ねえだろ」などと、実に非理論的な返答をしてくる。どうも考えるという行動が苦手らしい。
以上から考えて、彼らが子ども以外の何者でもないということは明らかであろう。
そんな彼らのほとんども、大人になると普通に家庭を築いて、子どもがいたりする。改心してちゃんとした大人になっていればまだしも、子どものまま親になってしまう人も最近は少なくない。「子どもの家族」というのは実に恐ろしい集団だ。
果たしてこれをなくす方法があるのだろうか。生憎、そのような妙案は今のところ思いつかない。